北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天正六年(一五七八)十二月十四日
後北条氏は、比企郡三保谷郷の道祖土康玄に、水損のため定納分を半減し、岩付城へ納めることを命ずる。

216 北条家印判状  〔道祖土文書〕
水損付而三保谷(1)之儀中上候、只今月廻之砌、委細之不及検使候、雖然、地ひきの郷(2)之間、当年之儀者、半分指置(3)
候、半分八拾貫文来廿五日を切而代官百姓相談、岩付へ可納候、此上一日も令難渋付而者、可為曲事者也、仍如件

  戊寅(4)       (禄寿応穏)
       十二月十四日

       道祖土土佐守(5)殿

〔読み下し〕
216 水損について三保谷の儀申し上げ候、只今月廻りの砌(みぎり)、委細の検使に及ばず候、然りといえども、地ひきの郷の間当年の儀は半分指し置き候、半分八拾貫文、来(きた)る二十五日を切りて代官百姓相談し、岩付へ納むベく候、このうえ一日も難渋せしむについては、曲事(くせごと)たるべきものなり、よって件の如し
〔注〕
(1)比企郡三保谷郷(川島町)
(2)地低のため水害にあった地、または地引(検地)の行われた地の意
(3)半分は減免すること
(4)天正六年
(5)道祖土康玄
〔解 説〕
この史料は、後北条氏が岩付領の比企郡三保谷郷が水害を受けたため、当年の年貢諸役定納分一六〇貫文を半減して八〇貫文を、十二月二十五日までに岩付城御蔵に納めることを、代官道祖土康玄に命じた印判状である。検使の確認なしに半額減免していることは、この年の被害の大きかったことを示している。道祖土氏は古くから岩付太田氏に仕え、三尾谷(三保谷)・戸守郷の代官職に任じられ、永禄十年(一五六七)の太田氏資戦死後も、後北条氏から同郷代官職を安堵されていた。天正六年(一五七八)四月七日付で後北条氏は三保谷代官道祖土土佐守と百姓中にあて検地書出しの印判状を発給し(道祖土文書)、高辻二六六貫余文のうち二〇四貫余文を「御領所」とし、代官給五貫文を含む諸免を引いて、一六〇貫文を「定納」と定めており、この史料の納入分と合致している。これらの史料を通じて、後北条氏の御領所=直轄領における貢租収取の具体相を知ることができる。

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