北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天正十六年(一五八八)正月五日
太田氏房は、道祖土満兼と八林郷百姓中に、岩付城への兵糧米納入を命ずる。

241 太田氏房印判状 〔道祖土文書〕
岩付御領分兵糧、其郷領主ニ相改、来晦日を切而、岩付大構(1)之内へ付越、寄々預ケ置、至于三月ハ、得御内儀(2)在所々へ可付返、若妄二致之、其郷ニ一俵も残置ニ付而ハ、其領主可為重科旨、依仰状如件

      (心簡要)
    (天正十六年)
    戊子
     正月五日

       道祖土図書助殿
        八林之中
         百姓中
〔読み下し〕
241 岩付御領分の兵糧、その郷の領主に相改め、来る晦日を切りて岩付大構の内へ付け越し、寄り寄り預ケ置き、三月に至らば、御内儀を得、在所々へ付け返すべし、もし妄りにこれを致し、その郷ニ一俵も残し置くニ付きてほ、その領主は重科たるべき旨、仰せによって状くだんのごとし
〔注〕
(1)岩付城下を包みこむ外郭の土塁、東西南北各二キロメートル余の規模をもっていた。
(2)北条宗家氏直の指示のこと
〔解 説〕
「岩付御領分」の兵糧を、その郷の領主=給人(家臣)が調査し、それを正月晦日までに岩付城大構内に納入することを、比企郡八林郷(川島町)の道祖土満兼らに命じたものである。この兵糧は、城内に貯蔵され、三月になったら、「御内儀」の承認の下で、返却する約束となる。また、一俵でも郷内に残し、納入を怠る家臣は処罰するというのである。ここで、「岩付御領分」とは、岩付城直轄地のことである。この命令は、恐らく領国全体に発せられたものと思われ、岩付領の総動員といえよう。ここに、前述した家臣への軍事動員・人質召喚・兵糧納入命令に続き、直轄地への兵糧納入令と、岩付領でも、対豊臣戦への臨戦体制の強化が進行したのである。

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