北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

建久元年(一一九〇)十一月七日
源頼朝の入京に、仙波安家・三尾谷十郎・源範頼・足立遠元・安達盛長らが従う。

67 吾妻鏡 建久元年十一月七日条
七日丁巳、雨降、午一剋属晴、其後風烈、二品御入洛、法皇密々以御車御覧、見物車輾轂(1)立河原、申剋先陣入花洛、三条末西行、河原南行、令到六波羅給、其行列先貢金(2)辛樻ー合
次先陣
畠山次郎重忠着黒糸威甲、家子一人、郎等十人等相具之
次先陣随兵・三騎列之、一騎別張替持、一騎胃腹巻行騰、又小舎人童上髪負征箭、着行騰、各在前、基外不具郎従、
一番
  大井四郎太郎大田太郎高田太郎
(中略)
四番
  仙波次郎(3)滝野小次郎小越四郎
(中略)
九番
  馬場次郎八嶋六郎多加谷小三郎(4)
(中略)
十八番
  三尾谷十郎河原小三郎上野沼田太郎
(中賂)
卅一番
  参河守相模守里見太郎
(中略)
次二位家折烏帽子、絹紺青丹打水干袴、紅衣、夏毛行騰、染羽野箭、黒馬、楚鞦、水豹毛泥障、
次著水干輩 負野箭
(中略)
五番
  足立右馬允工藤左衛門尉
次後陣随兵
(中略)
卅一番 (5)
  小見野四郎庄四郎仙波平太
(中略)
卅八番
  庁南太郎藤九郎成田七郎
(中略)
次後陣
  勘解由判官
  梶原平三相具郎従数十騎
  千葉介以子息親類等為随兵
秉燭之程、令着六波羅新御亭故池大納言頼盛卿旧跡、此間被建之給、
(後略)
〔読み下し〕
67 七日丁巳、雨降る、午一剋(うまのいっこく)晴に属(つ)く、その後風烈し、二品(源頼朝)御入洛、法皇(後白河院)密々に御車をもって御覧、見物の轂(こしき)を輾(きし)みて河原に立つ、申剋(さるのこく)、先陣花洛に入る、三条の末を西行し河原を南行して六波羅に到らしめ給う、その行列
先は貢金辛樻(からびつ)一合
次(つい)で先陣
(中略)
秉燭(へいしょく)の程、六波羅新御亭故池大納言頼盛(平)卿旧跡、この間これを建てられるに着かしめ給う(後略)
〔注〕
(1)車輪の中央に軸が通っていて、輻(轂からの輪に向かって放射状に出ている細長い木)の集中するところ。転じてすべての意
(2)諸国から朝廷に献納する金のこと。特に貢馬・貢金は、藤原氏時代から馬産地・金産地として陸奥国の恒例となっていた。
(3)仙波安家 武蔵七党の一つ、入間郡に多く分布する村山党出身で、入間郡仙波(川越市仙波町等)を名字の地とし、家信が祖で平太信平が長男、次郎安家が次男である。
(4)多賀谷重基 多賀谷氏は、武蔵七党の一つ、埼玉郡を中心に分布する野与党出身で、埼玉郡多賀谷(騎西町内田ケ谷)を名字の地とし、同町大福寺が館跡である。重基は始祖光基の三男
(5)小見野盛行 小見野氏は、武蔵七党の一つ、児玉郡を中心に広く国内に分布する有道姓児玉党出身で、比企郡小見野(川島町小見野)を名字の地とし、浅羽行業の四男盛行が始祖である。
〔解 説〕
前年に奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、この年初めて上京した。本史料は、この入京の行列を示すものである。後白河院らの京洛の上下の人々が賀茂川に牛車を並べて見物する中、午後四時ごろ、先頭に奥州からの貢金の箱を立て、先陣畠山重忠、先陣随兵・六十番百八十騎、頼朝自身、水干衆・五番十騎、後陣随兵・四十六番百三十八騎、後陣・三騎の行列編成で、馬上豊かに頼朝が入京し、夕刻、六波羅館に入った。この行列に水干衆五番に足立遠元、後陣随兵三十八番に安達盛長が、同三十一番に仙波信平と小見野盛行、先陣四番に同安家が、同九番に多賀谷重基が、同十八番に三尾谷十郎が、そして同三十一番に源範頼が入っている。なお、この行列の編成は、源氏一族が先陣・後陣随兵の一角に集中的に配置されているのを別にすると、血縁・地域的関係を主体に配置されたものではないようである。頼朝は、九日、後白河院に対面し、権大納言に任じられ、二十四日、右近衛大将を兼ねたが、十二月三日、両職を辞任し、「前右近衛大将家(右大将家)」と称されるようになる。

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