北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

正治元年(一一九九)四月十二日
源頼朝の訴訟親裁を止め、有力御家人十三人による合議制とする。これに比企能員・安達盛長・足立遠元らが加わる。

73 吾妻鏡 正治元年四月十二日条
十二日癸酉、諸訴論叓、羽林(1)直令決断給之条、可令停止之、於向後大少叓、北条殿、同四郎主、幷兵庫頭広元朝臣、大夫属入道善信、掃部頭親能、在京、三浦介義澄、八田右衛門尉知家、和田左衛門尉義盛、比企右衛門尉能員、藤九郎入道蓮西、足立左衛門尉遠元、梶原平三景時、民部大夫行政等加談合、可令計成敗、其外之輩無左右不可執申訴訟叓之旨被定之云々
〔読み下し〕
73十二日癸酉、諸訴論の事、羽林直に決断せしめ給うの条、これを停止(ちょうじ)せしむべし、向後(きょうこう)大少の事においては(人名略)談合を加え、計らい成敗せしむべし、その外の輩(ともがら)は左右(とこ)なく訴訟の事を執り申すべからざるの旨、これを定めらると云々
〔注〕
(1)源頼家 頼朝の長男、母は北条時政の娘政子。頼家は左近衛中将に任官したので、この漢名である「羽林」と呼ばれた。
〔解 説〕
初代将軍源頼朝は、本年正月に五十三歳で死去し、十八歳の賴家が継ぎ二代将軍になった。頼朝将軍期は、将軍が全権を掌握し親裁する将軍独裁体制であり、これは頼朝の器量と彼への御家人の信頼感に支えられていた。頼朝の死は御家人に将来の不安を感じさせた。頼家は父の路線にしたがって、独裁体制を取ろうとした。しかし、若年の将軍に信頼感はなく、その独裁権の停止を幕府宿老らは考えた。それが、本史料の頼家の訴訟親裁停止と有力御家人十三人合議制の発足である。幕府宿老は、頼家の舅北条時政(駿河・伊豆国守護)・義時父子、京下官人の政所別当大江広元等や、信濃・上野国守護の比企能員(頼家の乳母夫)・三河国守護安達盛長・足立遠元の十三人である。彼等が幕府の政務・訴訟を合議して裁決するのである。しかし、この「談合」が円滑に機能したかどうかは明白でない。なお、盛長が「入道蓮西」とあって出家したことを示しているが、これは頼朝死去に殉じて頭を丸めたものと推定される。

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