北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

応永二十四年(一四一七)正月
上杉禅秀の乱で、武州北白旗一揆の構成員別符尾張入道の代官内村勝久は上杉憲基軍に参加し、高坂御陣など各地を転戦する。

152別符尾張入道代内村勝久着到状  〔別符文書(1)〕
 着到  武州北白旗一揆(2)
 別符尾張入道(3)代内村四郎左衛門尉勝久申
 右、去二日馳参庁鼻和(4)御陣、同四日村岡(5)御陣、同五日高坂(6)御陣、同六日入間河(7)御陣、同八日久米河(8)御陣、同九日関戸(9)御陣、同十日飯田(10)御陣、同十一日鎌倉江令供奉、就中至于上方還御之期、於在々所々御陣致宿直警固上者、下給御証判、為備向後亀鏡、粗言上如件
   応永廿四年正月 日
   「承候了、(花押)(11)」
 
153鎌倉大草紙  〔群書類従〕
 (前路)かくて国々の諸勢集る間、同六日(12)に十万騎にて六本松に押寄る、上杉弾正少弼氏定、扇谷より出向て、爰を先途と防戦ける、岩松治部大輔(13)、渋川左馬助、入替々々攻しかば、霜台(14)の方には上田上野介(松山城主(15))、疋田右京亮討死す、氏定も自身深手を負て引退
〔読み下し〕
152着到 武州北白旗一揆
 別符尾張入道代内村四郎左衛門尉勝久申す
 右、去んぬる二日庁鼻和御陣に馳せ参じ、同じき四日村岡御陣、同じき五日高坂御陣、同じき六日入間河御陣、同じき八日久米河御陣、同じき九日関戸御陣、同じき十日飯田御陣、同じき十一日鎌倉え供奉せしめおわんぬ、なかんづく上方還御の期に至り、在々所々の御陣において宿直警固致すのうえは、御証判を下し給い、向後の亀鏡に備えんがため、あらあら言上件の如し
153
〔注〕
(1)静岡県静岡市大谷五一〇五、別府潔氏蔵
(2)白旗一揆は、武蔵七党の児玉党・猪俣党・村山党などの系譜を引く氏族が構成員と考えられ、別府・久下・塩谷・高麗・成田氏らの名前が知られている。観応の擾乱の際に出現し、十四世紀の終り頃に武州白旅一揆・武州北白旗一揆・上州白旗一揆に分かれている。いずれも、上杉氏の軍事力の中心となって活躍した。
(3)武蔵七党横山党の出で、別府郷(埼玉県熊谷市)を本拠地として活動したことから、別府氏を称した。
(4)こばなわ 深谷市国済寺のあたり
(5)熊谷市村岡
(6)東松山市高坂あたり
(7)狭山市のうち
(8)所沢市のうち
(9)東京都多摩市関戸のあたり
(10)神奈川県横浜市戸塚区上飯田町・下飯田町のあたり
(11)関東管領上杉憲基
(12)応永二十三年十月六日のこと
(13)岩松満純
(14)そうだい 弾正台の唐名、ここでは上杉氏定のこと
(15)比企郡吉見町所在の平山城
〔解 説〕
史料152と153は、上杉禅秀の乱に関するものである。
禅秀の乱は、足利持氏が禅秀の家人の所領を没収したことを契機として起きた。十月二日の禅秀らの挙兵に始まり、十月六日の鎌倉由比が浜合戦では禅秀側が勝利している。敗れた関東公方側は、持氏が駿河に、憲基が上野方面に逃れたが、ただちに反撃を開始し、幕府の援軍を加えた持氏軍は、各所で禅秀軍を破り、応永二十四年(一四一七)一月十日の鎌倉雪ノ下合戦で禅秀らを敗死させ、反乱軍を鎮圧した争乱である。
史料152は、反乱を起こし鎌倉を占領していた上杉禅秀らに対して、反撃を開始した山内上杉憲基に従った別府尾張入道代官内村勝久の着到状であり、勝久は、正月二日上杉憲基の街道を通り、入間河・久米河・関戸・飯田をへて十一日に憲基とともに鎌倉に入っている。153は、応永二十三年十月六日に行われた鎌倉由比が浜合戦で、関東公方側の武蔵松山城主上田上野介が戦死したことを伝えるもので、後に扇谷上杉氏の有力家臣として、松山城を拠点に活動する上田氏の名が見える。
上田氏の出身は、源範頼の子孫の吉見氏であるなど諸説があって明らかでないが、円覚寺蔵大般若経刊記に「沙弥希道 俗名上田源蔵人源親忠」とあることから、源氏の出身であることはまちがいない。上田氏と比企郡との関係がいつごろ始まったかは不明であるが、上杉氏がこの地方に入るきっかけとなったものに「武蔵平一揆の乱」がある。上杉氏はこの争いに勝ったことにより、平一揆のメンバーの旧領を相当部分手に入れることができたと思われる。この時に上田氏も上杉氏から所領を与えられた結果、従来の活動地域である相模国から、太田氏や大石氏などとともに武蔵国へとその本拠地を移動したと考えられる。以後太田氏は豊島区あたり、大石氏は多摩郡あたり、上田氏は比企郡あたりを中心に、それぞれ活動していった。

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