北本市史 資料編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 古代・中世

第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

応永二十八年(一四ニ一)九月
足利持氏は、甲斐の武田信長反逆の風聞について、吉見範直に糺明させる。

155 喜連川判鑑
辛丑(応永)二十八、九月、甲州武田右馬助信長(1)反逆ノ聞ヘアリ、因玆吉見伊予守(2)ヲ指向ラル、信長出合ヒ対談シテ、野心無之旨陳ズ、吉見鎌倉二帰ル
〔読み下し〕
155 略
〔注〕
(1)甲斐守護武田信満の子
(2)『後鑑』によれば吉見範直とする。右馬頭頼継の子、武州吉見の祖といわれる。
〔解 説〕
甲斐守護武田信満は、上杉氏憲(禅秀)の外舅であったため、氏憲が持氏に反抗した禅秀の乱には氏憲に味方して持氏と対立し敗死した。このため持氏は武田氏に圧迫を加えたが、幕府は武田氏を支援した。信満没後、子の信重は出家し叔父信光と高野山に入った。その間一族の逸見有直が持氏の支援で甲斐を横領し、守護職任命を幕府に願い出た。幕府はこれを許さず信光を守護に任命した。信光の死後、兄信綱の子信長が家督を相続しようとしたが持氏の反対で実現せず、その子伊豆千代丸が跡をついだが逸見氏の勢力が強く国務を掌握できなかった。幕府は応永二十八年に信重を守護に任命して入国を図ったが実現しなかった、こうした幕府・武田氏対持氏・逸見氏等国人層の対立の中で、信長反逆の風聞があり、その糾明の使者として持氏の近臣である吉見範直が出向いたのである。『浅羽本吉見系図』(彰考館蔵本)によれば、範直は武州吉見の祖とある。

<< 前のページに戻る