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第3章 農業と川漁

第3節 肥料と客土

1 肥料

現在では、肥料といえば化学肥料が中心で、ほとんどが買い求められたものである。しかし、少なくとも戦後までは購入肥料を使ったとしても、あくまでも自給肥料が主体であった。購入肥料はキンピ(金肥)と呼ばれ、豆粕や干鰯・油粕などは古くから使われたはずである。これらについては明確な資料が見あたらないが、時代をさかのぼればさかのぼるほど使用は少なく、自給肥料の比重が大きかったと考えられよう。
自給肥料として大量に便われたのは、ダゴイという堆肥や灰・下肥で、昭和初期まではこれら自家で調製、調逹できる肥料と金肥とを取り混ぜながら施すのが一般的な姿だった。下肥は自宅の分だけでは足りず、町まで汲み取りにいった人もあるし、灰も足りないと灰問屋や水田地帯の農家から買い求めた。現在の古老の世代は、こうした堆肥・灰・下肥を主体とした肥料から次第に化学肥料が普及し、ついには化学肥料主体へという流れを体験した世代だといえよう。
古老からの聞取りをもとにこの地域の肥料や施肥法の特色をあげると、第一に水田稲作に一般的な刈敷(かりしき)(緑肥)の伝承がないこと、第二に山林から得られる落葉を堆肥に作るという具合いに、山林を農業体系の中にうまく組み込んでいること、第三に藁灰を中心に灰を多量に使用していること、第四に稲作や畑作において、種子と肥料とを混合した作付法が行われていたこと、第五に年中行事などの儀礼の中には肥料や施肥用具と結びついたものがあること、などがあげられる。
これらの特色は北本市域に限らず、大宮台地に立地する地域の肥培に関する特色でもある。堆肥や灰は後で詳しくとりあげるので、ここでは第一・第四・第五の特色について触れておくと、まず第一の刈敷に関しては現時点でははっきりとした理由が見あたらない。浦和市や岩槻市なども同じ傾向にあり、ともにかつては摘み田が盛んだったところである。刈敷に代わって別の肥料を元肥にしているわけでなく、田に肥料を施すのは田摘み後の田の草の時に行うのが普通となっている。あえて刈敷の伝承がないことの理由をあげると、田摘み後の施肥が一般化したために早い時代に田うない時の施肥が行われなくなり、それとともに刈敷も消えたのではないかと思われる。なお、同じ摘み田地帯でも東京の多摩地方や神奈川県東部では田うないの時に刈敷を入れる伝承がはっきりとある。
第四の肥料と種子の混合蒔きについては、摘み田では当然のこととして伝承されている。これに対して畑作の麦やオカボなどでは行う人もあったが、これは丁寧な人とか労働力の少ない家でしていたという。一般的であったのか特殊であったのか、いまひとつはっきりしないわけだが、伝承から判断する限りでは古くは畑作でも広く行われたと思われる。それが現在の古老あるいはその前の世代で次第に種子と肥料とを別に蒔くようになり、特別な理由のある場合に行われ続けたと考えられる。
また、摘み田の種子・肥料混合蒔きでは、灰と下肥を混ぜると下肥の肥料分がなくなるので、これらは混ぜないという人があった。科学的にはアンモニア分がなくなることは事実で、すでに明治初期にはこれらを混ぜて使わないようにという指導が行われていた。このことからいえるのは、摘み田にみられる肥料混合は合理的な理論があって行われたのではなく、あくまで一つの文化として伝承されてきたということである。
第五の肥料・施肥用具と儀礼の関連については、具体的には正月十四日の小正月行事として行われるハナギ(花木)や一月二十日のエビス講があげられる。花木はニワトコを削って作ったもので、これを庭のコエボッチ(堆肥)にも立て、高尾では肥神様(こえがみさま)と呼ぶ家もあった。また、花木の代わりに石戸宿では十四日に団子を作り、これを割竹の先にさして堆肥の上に立てるという人もあった。石戸宿の伝承が一般的であったかどうかは、確認する必要があるが、いずれにしても作物は堆肥、つまり肥料によって育つという心意をあらわす注目すべき伝承である。
エビス講との関わりは、たとえば北中丸では、エビス講には麦の施肥や摘み田の田摘みなどに使う一斗五升のザルの肩縄をエビスに供えたという。肩縄自体はこれ以前に綯(な)っておき、エビス講の日に米の粉を練って小判形に作った団子と一緒に斗桶(一斗枡)に入れ、お金を添えてエビスに供えたという。エビス講の供物にお金にかかわるものを使うのは一般的だが、ザルの肩縄もあげるのが注目される。施肥や田摘みに使うザルの肩縄には、その年の豊作を願う気持ちが表されているといえよう。

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