からから揺れき あとがき等

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あとがき

これは、私の第一歌集です。この歌集の出版を、最も喜んでいるのは、 十年前に他界した母だと思っています。
母は、短歌を詠み、俳句を作る人でした。又、叔父も歌集を出版しています。それは、遠縁に、アララギの歌人で、土屋文明などとも交流のあった齋藤廣一が居たことが、大きく影響していたと思われます。
お陰で、私も若い頃から、身近に短歌がありましたが、自分で詠むことは、ありませんでした。初めて、短歌を詠みたいと思ったのは、母が亡くなった年でした。幼い頃からの母との想い出を、 浮かぶ言葉のままに三十一文字にしました。自然に言葉が湧きでる感じで、 ニケ月も経たないうちに、百首程詠みましたが、私自身、何か見えない一筋の流れが身の裡(うち)にあるように感じました。
そのときに詠んだ短歌を、生まれて初めて、埼玉県歌人会の大会に応募したところ、いきなりトップの知事賞を戴くことになり、本当に驚きました。
歌集名『からから揺れき』は、その受賞歌のほの暗き秩父の家の軒下に干し十薬はからから揺れきによるものです。
今でも、この短歌を口にすると、生まれ育った秩父の風土と父母との暮しの様々がよみがえります。
本歌集は、母が他界した年に詠んだ作品から、スタ—卜しています。年代順にこだわらず、母の姿が生き生きと残って欲しいという視点から組みました。
その後は、「花實」誌に掲載された作品を中心に、ほぼ年代順ですが、未発表のものや歌集を纏める時点で、 一部見直ししたものも含まれています。
連作が多く、偏りがあるかも知れませんが、基本的には、自然な言葉遣いとリズムを大切に、二〇〇九年からの十年間の中で、五二〇首を選びました。
詠むときは、衝擊的な内容も一度は裡(うち)に沈め澄むのを待って詠むよう心掛けています。それは人間勉強を通して学んだ「平常心これ道なり」という言葉を大切にしているからです。激しい言葉で魅力的な短歌もありますが、「気がついたら口遊(くちずさ)んでいた」と、誰かに言ってもらえるような短歌(うた)が、一首でも詠めたら幸せだと思っています。
また、 作品は発表した時点から自分を離れ、読む人のものでもあると感じています。
二〇一八年に、 福島の新地町に、東日本大震災の津波で亡くなられた方々への鎮魂の歌碑が建立されました。地元在住の画家で、独立美術協会で永年活躍されている、齋藤研先生が、賛同者の皆様方と共に建立。除幕式の様子は、朝日新聞と河北新報に写真入りで紹介されました。
その歌碑には磯山の枯れ葦原の津波跡舞ひていとほし鎮魂の雪の短歌が、刻まれています。私が数年前に、夫の友人である齋藤先生に案内されて、磯山で詠んだ短歌(うた)です。
除幕式当日、建立に尽力された多くの皆様と、新聞社の記者の方などが集い、県立の広い公園の丘の上に、伊達 冠 石(だてかんむりいし)という珍らしい石の歌碑が、六月の陽を受けて、重々しく建つ姿が、印象的でした。
皆様方が、津波の惨事を語りながら、歌碑に触れる姿に、この短歌が、私を遠く離れても、地元の方々の 縁(えにし) の中で生きてゆくなら有り難いことです。短歌は詠み手より、読み手によって生き続けるもののように思います。
歌集を纏めるということは、自分の短歌の歩みを冷静に見られるのと同時に多くの方々に、支えられて生きている自分に気づく機会でもありました。
まず、今回の出版を勧めてくださり、 御多忙の中、跋文をお書きくださった利根川発先生に、厚く御礼申し上げます。
「花實」選者の先生方、 青森歌会、鳩山歌会の皆様には、貴重な御意見を頂き大きな励みとなりました。又、友人のお父上で、古典語に詳しく、的確なアドバイスをしてくださった田村忠士氏、母の挽歌を詠むことを勧めてくれた歌友の布施汎子さんにお礼を言いたいと思います。
最後になりましたが、「歌碑に寄せて」では、女子美術大学名誉教授であり、漢詩や和歌にも造詣の深い、齋藤研先生より、身に余る一文を賜り、本歌集に華を添えていただきました。心より感謝申上げます。
カバーの絵は、中学校美術教師退職後も、制作を続けている夫の作品です。
出版にあたり、いりの舎の玉城入野様はじめスタッフの方々には、大変お世話になりました。お礼申し上げます。

二〇一九年十一月十三日
             本多 俊子

[音声でお聴きになれます]

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