北本の文化財

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【荒井の富士塚】

指定
市指定
種別
有形の民俗文化財
指定年月日
平成25年3月28日
所在地
荒井2-228 浅間神社

石戸小学校から南東へ約300mに所在する浅間神社は、地元では通称「竹の子浅間」と呼ばれ親しまれている。塚はその境内に位置し、富士山の山開きにあわせて行われる初山行事は東原地区の氏子世帯を中心に運営が行われ、この1年に誕生した子どもの額に朱印を捺し、団扇を贈る習慣が残されている。塚は現在、頂部にコンクリートによる土留めがなされ、山裾の南東部を東原公会堂に切られているが、概ね原形を留めている。概況は東西径約28m、南北径約27mの緩い五角形を呈し、高さは4.4m。頂部には約10m四方の平坦部があり、木造の社殿が建てられている。南側には塚を登拝するための石段が直線的に築かれている。西側には、頂部から山裾にかけて蛇行するような登山道の跡も観察される。正面山裾には「宝永四年(1707)」の銘を持つ手水石がある。
神社の沿革について詳細は不明だが、伝承によれば200年程前、もとは御嶽社と浅間社が合祀されていたものを分祀して、浅間神社として単独に祀ったものだという。また、その際に頂部に土を盛ってかさ上げしたといわれ、古くから塚上に社を祀っていたことを伝えている。塚に富士溶岩塊(クロボク)、小御嶽社、烏帽子岩、胎内施設等は設けられておらず、富士講に関する記録・伝承も確認されない。
以上のことからこの塚は、安永8年(1779)に江戸の高田に初めての富士塚が築かれて以降、文化・文政期(1804~29)に隆盛した富士講による富士塚ではなく、宝永4年(1707)の銘を持つ手水石の存在が示すように、それ以前の古くから伝わる浅間信仰に基づく築造であると考えられる。
市内に残る富士塚はほぼ江戸時代後期から明冶にかけての築造で、これらには食行身禄を祀る石碑や富士溶岩塊(クロボク)、講の存在を示す石造物などが確認されるため、富士講によって築かれたものであることがわかる。これに比して竹の子浅間境内の富士塚は、市内における富士講隆盛以前の古くからの富士信仰を考える上で、また、東間地区の富士塚に次ぐ規模の富士塚として貴重である。

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