北本のむかしばなし この本を利用するにあたって

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三 歴史れきしむかしのようすをつたえる話

ここでは、北本の代表的な文化遺産いさんであるしろやかた街道かいどう河岸かしなどにまつわる話をトピックてきに取り上げました。配列はおおむね年代順ねんだいじゅんならべてあります。
以下いか、本文の内容解説ないようかいせつねながら、おおまかな北本の歴史の流れをべてみます。
歴史的にみると、市域しいきには古くは荒川あらかわよりの台地西部せいぶ高尾遺跡たかおいせき宮岡氷川神社前遺跡みやおかひかわじんじゃまえいせきなどの縄文時代じょうもんじだいの遺跡が分布ぶんぷしています。とくに宮岡氷川神社前遺跡からは、精巧せいこう装飾品そうしょくひんである耳飾みみかざりが出土しゅつどしています。また、荒川の河川敷かせんしきからは、古代人のものと思われる独木舟まるきぶねも発見されています。古墳時代こふんじだいのものとしては、荒井の八重塚古墳群やえづかこふんぐんなどが残され、その歴史をたどることができます。台地東部にも縄文・古墳時代こふんじだい上手遺跡うわでいせきがあります。
鎌倉時代かまくらじだいには石戸宿のほりノ内を根拠地こんきょちにしたと思われる武士団ぶしだんがあらわれ、空堀跡からぼりあとなどにほり内館うちやかたをしのぶことができます。この館のあるじについては、石戸左衛門尉いしとさえもんのじょう安達藤九郎盛長あだちとうくろうもりなが、あるいは源範頼みなもとののりよりとも伝えられていますが、さだかではありません。
堀ノ内館内には、蒲冠者かばのかじゃ源範頼の伝承でんしょうを持つ国指定天然記念物てんねんきねんぶつ蒲桜かばざくらや、やはり範頼のはかと伝える凝灰岩製ぎょうかいがんせい石塔せきとうがあります。石戸蒲桜いしとかばざくらについては、幕末ばくまつの洋画家であり思想家しそうかでもあった渡辺崋山わたなべかざんが、滝沢馬琴たきざわばきんたのまれて蒲桜かばざくらえがいています。石戸の地をおとずれたころの崋山かざんは、まだ華山とごうしており、二〇代の時でした。凝灰岩製ぎょうかいがんせい石塔せきとうは、大宮台地上ではれいがなく、県内では鎌倉幕府かまくらばくふを代表する武将ぶしょうはかである川本町の畠山重忠はたけやましげただの墓、岡部町おかべまち岡部六弥太忠澄おかべのろくやたただすみの墓ほか数例すうれいをみるのみです。また、この東光寺や高尾の阿弥陀堂あみだどうからは、全国第四位の古さをほこ貞永じょうえい二年(一二三三)めいのものをはじめとして、鎌倉時代の板碑いたび多数が出土しゅっどしています。
鎌倉街道かまくらかいどう石戸宿いしとしゅくは、現在げんざいではまぼろし古道こどうといわれる鎌倉街道が、市内西部の荒川沿あらかわぞいに通っていたということと、戦国時代せんごくじだいには石戸宿に伝馬宿てんましゅくかれていたという話です。北本を通る鎌倉街道は、武蔵府中むさしふちゅうから新座郡にいざぐんを横切り、入間いるま川をわたって与野よの・大宮・川田谷かわたや・石戸・鴻巣・羽生はにゅう川俣かわまたて、上野国こうずけのくに(群馬県ぐんまけん)にいたっていた中道なかつみち支道しどうです。これは、主として群馬方面との交通に使用されたようですが、奥州おうしゅうへの裏街道うらかいどうでもありました。
また、石戸宿については大永だいえい四年(一五二四)北条氏綱ほうじょううじつな相模国当麻宿さがみのくにたいましゅく(神奈川県かながわけん相模原市さがみはらし)に伝馬の法を定め、「玉縄たまなわ小田原おだわらから石戸と毛呂もろへの往復おうふくの者でとら印判状いんばんじょう(北条宗家そうけ許可書きょかしょ)を持っていない者には、伝馬押立おしたてをしてはならない」と厳命げんめいしています。このことから、石戸も毛呂も、当時北武蔵きたむさし重要拠点じゅうようきょてんとされ、小田原本城と連絡れんらくする交通路が開けていたことをしめしています。
石戸城いしとじょうは、室町時代むろまちじだい長禄ちょうろく年間(一四五七~一四六〇)ころに、石戸宿の北のはしきずかれました。この城は、松山・川越かわごえ岩槻城いわつきじょうとの連絡れんらくとりでの役目をもっていました。扇谷上杉氏おおぎがやつうえすぎし家臣藤田八郎右衛門かしんふじたはちろうえもん居城きょじょうはじまり、大永五年(一五二五)には岩槻城主太田資頼おおたすけより北条氏綱ほうじょううじつなめられて岩槻城をだっし石戸城に入ったり、上杉謙信うえすぎけんしんが松山城救援きゅうえんのために石戸城へ来たりしました。やがて北条氏の勢力せいりょく確立かくりつするとその持城になり、天正十八年(一五九〇)七月、北条氏の滅亡めつぼうによってはいされました。
石戸宿の庚塚かねづかには、えのき古木こぼくがあり地元の人は、ここを一里塚いちりづかともんでいます。正保しょうほ年間(一六四四~一六四八)の武蔵国図にも塚のしるしがみえることから、往時おうじの伝馬交通路のなごりとも考えられます。このように、石戸宿には城があり、街道が通っていて伝馬宿がおかれ、市域しいきもっとも活気にちた所であったと思われます。
また、市の東部には、戦国時代に鴻巣七騎こうのすしちきと呼ばれる武士ぶし(地侍じざむらい)が住んでいました。かならずしも七名とはかぎりませんが、加藤修理亮かとうしゅりのすけ(北中丸)、大島大膳亮おおしまだいぜんのすけ(宮内)、深井対馬守ふかいつしまのかみ(深井、宮地)、小池長門守こいけながとのかみ(鴻巣)、立川石見守たちかわいわみのかみ(上谷)、河野和泉守こうのいずみのかみ常光じょうこう)、本木某もときなにがし(加納かのう)の七名が伝承でんしょうされています。館や屋敷跡やしきあとは、いずれも岩槻街道ぞいにあります。これらの人たちは岩槻城の太田氏の家臣でした。やがて、兵農分離へいのうぶんりの行われた近世きんせい社会に移行いこうすると、村落の草分け百姓ひゃくしょうになったものと思われます。「村を開いた人たち」祖先そせんも、また同様です。
江戸時代えどじだいの北本は天領てんりょう旗本領はたもとりょう寺社領じしゃりょうからなり、正保年間には一四か村、幕末ばくまつには一五か村に分かれていました。「お茶屋跡ちゃやあと徳川家康とくがわいえやすのたかがり」は、徳川家康が、天正てんしょう十八年(一五九〇)江戸えど入封にゅうふうすると、鷹狩たかがりとしょうしてさかんに領内りょうない巡回じゅんかいし、各地かくち休泊きゅうはくのための御殿ごてんやお茶屋を設置せっちしたことにかかわる話です。その場所は比較的ひかくてき交通の便べんいところで、中山道筋なかせんどうすじ では板橋茶屋いたばしちゃや浦和御殿うらわごてん鴻巣御殿こうのすごてんなどが知られています。石戸宿の御茶屋跡は、将軍しょうぐんの休泊所であるとともに、江戸初期しょき本陣ほんじんや、周辺しゅうへん農村を支配しはいする拠点きょてんのような役割やくわりをおわされていました。
中山道なかせんどう本宿もとじゅくは、江戸初期の北本の交通事情じじょうしめす話です。今日の北本のもととなる街並まちなみがつくられたのは、江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅しゅくえきとしてととのえられたのがはじまりです。現在げんざいの本宿付近ふきんは、そのころ本鴻巣村もとこうのすむらばれていました。その宿駅も中山道が整備せいびされたころには、現在の鴻巣の地にうつされました。宿場のあったところは、その後、本宿もとじゅく(元宿)むらばれ、これが北本の地名の起こりともなっています。街道かいどう旅館りょかんや店はありませんでしたが、本宿村の下茶屋と東間村の三軒茶屋の二か所には立場たてばがおかれていました。人や馬はそこでのどかわきや旅の
つかれをいやし、次の宿場へと向かいました。
そのころ、荒川あらかわに面した高尾・荒井・石戸宿には河岸場かしばがありました。とくに高尾河岸たかおがしは、元禄げんろく九年(一六九六)に幕府公認ばくふこうにん河岸かしとされ、近隣きんりん年貢米ねんぐまいや酒などの輸送ゆそうをしていました。明治めいじ九年ころには、荷船五そう(四〇こく積み四、二〇石積み一)、渡船わたしぶね二艘があったといいます。付近には、米・麦・雑穀ざっこく肥料ひりょうあつかう店、酒・煙草たばこ雑貨ざっかを扱う店、宿屋やどや銭湯せんとう小料理屋こりょうりやなどがあり、たいへんにぎわっていました。この高尾河岸も、昭和三年に北本宿駅が開設かいせつされてからさびれてしまいました。
高尾地区の農家では、冬の農閑期のうかんきにタンスのはこづくりをしました。このタンスづくりがもっとさかんだったのは明治初年から大正年間にかけてでした。高尾タンスはその丁寧ていねいな仕上げが人気を「高尾タンス」として東京の三越みつこし白木屋しろきやでも一流品いちりゅうひんとしてあつかわれていました。高尾河岸からもたくさん船で運ばれました。
また、「石戸トマト」は、全国に名をはせていました。昭和三年の博覧会はくらんかい出品のさいには、全国二七〇種の中で日本一のり紙をけられました。
「北本宿駅とサツマイモ」は、交通と特産物とくさんぶつの話です。近代に入ると町村合併がっぺい促進そくしんされ、北本では明治二十二年の町村制施行ちょうそんせいしこうによリ、一四か村が合併して石戸村と中丸村とが成立せいりつしました。さらに、昭和十八年に石戸・中丸の両村が合併し、新村名は中央ちゅうおうにある地名ときゅう国鉄の駅名から、北本宿村とされました。そのころ北本宿は、麦・陸稲りくとう甘藷かんしょまゆを中心とする台地の畑作主体のじゅん農村でした。北本宿駅は、乗る人よりむしろサツマイモの出荷しゅっか利用りようされていました。
その後、人口の増加ぞうかと商工業の発展はってんにより、昭和三十四年に町制を施行して北本宿村を北本町とあらためました。さらに日本経済けいざいの高度成長せいちょうによって、住宅団地じゅうたくだんちなどの建設けんせつが進み人口が急激きゅうげき増加ぞうかして、昭和四十六年に埼玉県さいたまけん三三番目の市として北本市が生まれました。北本市は都市化とともに農地や平地林へいちりん宅地化たくちかも進みましたが、一部にはむかしながらの雑木林ぞうきばやしのこされ、またきくようラン栽培さいばいなどの都市型としがた農業がさかんになるなど、緑にかこまれたゆとりのある健康けんこうな文化都市を目指して発展はってん
つづけています。

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