デーノタメ遺跡 遺跡の立地と環境

社会3 >> デーノタメ遺跡 >> 遺跡の立地と環境 >>

第2章 遺跡の立地と環境

第2節 遺跡の歴史的環境

デーノタメ遺跡はこれまでの調査によって縄文時代中期の勝坂期~加曾利EⅢ期及び後期の堀之内Ⅰ期から加曾利BⅠ期を主体とする集落跡が明らかにされている。このうち中期集落は長楕円形に展開する環状集落であり、長軸径で約210m、弧状に展開する後期集落も弦長270mと大規模であること、中期集落と後期集落ともに近接して水辺空間を伴っている点が大きな特徴である。
このデーノタメ遺跡を考える上で看過できないのが、本遺跡の所在する江川流域の縄文遺跡群である。本遺跡は市内南部の市境付近に位置するが、ここから約1km南西の桶川市川田谷には諏訪野遺跡が所住し、長軸約180mの中期環状集落が確認されている(渡辺2014)。また、デーノタメ遺跡から南南東に約2kmの高井遺跡では、やはり径200mを越える中期環状集落の存在が確認されており(吉川・今井2001)、小河川である江川上流域では縄文時代中期の大環状集落が高密度で近接するという、特異な歴史的環境にあったことが注目されよう。

写真3 デーノタメ遺跡の周辺の航空写真(昭和24年)

この江川は、北木市域においては西側の本流及び中央と東側の2つの支流に分枝し、デーノタメ遺跡はこの東側支流に位置する。それぞれの主な縄文時代中期の集落遺跡としては、中央支流の奥に位置する三五郎山遺跡では加曾利EⅡを中心とする13軒の住居跡が調査され(斉藤2016)、西側本流では刑部谷遺跡(第5図1)、氷川神社北遺跡(同図2)が所在し、氷川神社北遺跡では加曾利EⅠ期の住居跡が4軒確認されており(磯野1995)、いずれも環状集落の可能性が想定されている。
また、江川流域の縄文時代前期の集落としては、デーノタメ遺跡の南西に近接する榎戸遺跡(第5図3)において関山期の住居跡3軒、西側本流の氷川神社北遺跡において諸磯b期の住居跡3軒が確認されており、後期称名寺期では榎戸遗跡において住居跡4軒、台原遺跡(同図4)では土坑1基(下村1990)、エイリンジ遺跡(同図5)では住居跡1軒が確認され(磯野1998)、それぞれ小規模集落が調査されている。
次に北本市域に視野を広げ、縄文時代の主な集落遺跡を概観しておきたい。市西部の荒川沿岸では、高尾地区の宮岡氷川神社前遺跡における調査が特筆される。本遺跡は大宮台地の中で最も標高が高く、谷頭部の湧水点を囲繞する台地肩部に展開し、後期後葉から晩期にいたる集落跡が調査されており、安行Ⅱ期・安行Ⅲc期の住居跡や遺物包含層から土製耳飾、土偶、土版、石剣、石冠等の遺物が出土している。周囲に遺存するr環状盛土」の可能性を残す遺構とともに注目|すべき遺跡である(斉藤2008)。
また、市東部の赤堀川沿岸では上手遺跡の調査が注目される。この遺跡は元荒川低地を遡行する支谷に臨む台地肩部に展開し、加曾利EⅢ期を主体として加曾利BⅠ期までの住居跡が43軒確認されており、この時期の集落跡としては比較的規模が大きい。古式の称名寺式土器を伴う柄鏡住居跡や直径10mの堀之内Ⅰ期の大型住居跡等が注目される。この他、市西部荒井地区の市場遺跡は荒川の崖線と谷津に画された遺跡で、これまでに発掘調査は実施されていないが、台地上に広汎な加曾利E式土器の分布が認められ、大規模な環状集落の存在が想定されている。

参考文献
磯野治司 1995『氷川神社北遺跡(第2次調査)・市場Ⅰ遺跡』 北本市文化財調査報告書第3集 北本市教育委員会
磯野治司 1998『エイリンジ遺跡』 北本市遺跡調査会報告書第3集 北本市遺跡調査会
齊藤成元 2008『宮岡氷川神社前遺跡』 北本市文化財調査報告書第16集 北本市教育委員会
齊藤成元 2016『三五郎山遺跡』 北本市文化財調査報告書第19集 北本市教育委員会
下村克彦 1990「江川流域の遺跡」『北本市史第三巻上 自然・原始資料編』 北本市教育委員会市史編さん室
吉川國男 1990「江川流域の遺跡」『北本市史』 北本市史編さん室
吉川國男・今井正文 2001『 高井遺跡第4次・第5次・第10次・第11次発掘調査報吿書』桶川市教育委員会他
渡辺清志 2014『諏訪野遺跡I』埼玉県埋蔵文化財調査事業団調査報告第410集 埼玉県埋蔵文化財調査事業団

第3図 江川流域及び周辺の縄文時代の遺跡分布

<< 前のページに戻る