デーノタメ遺跡 結語

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第5章 結語

第2節 集落の立地と低地の利用

1 集落と水辺の相関
前節で示したように、デーノタメ遺跡の台地上では勝坂3期~加曾利EⅢ期に至る縄文時代中期の環状集落、及び堀之内Ⅰ期から加曾利B1期に至る後期の弧状集落が展開している。このうち、遺跡の南西部では中期集落が、中央から北東部にかけては後期集落が広がっており、ともにデーノタメ(湧水池)を中心とする低地に面していることから、これら集落が江川支谷の低地を意識して選地されたものと想定される。
ちなみに、江川流域の中期集落を概観すると、本遺跡の下流に位置する諏訪野遺跡(桶川市川田谷)及び高井遺跡(同市下日出谷)、本遺跡の対岸に位置する刑部谷遺跡(北本市石戸6丁目)等の環状集落では、いずれも遺跡の北側に支谷が位置している。また、元荒川流域の加曾利EⅢ期から加曾利B1期に至る上手遺跡(本市古市場1丁目)は、この時期の集落としては比較的規模が大きく、やはり集落の展開する台地斜面の北側に低地が位置する。したがって、大宮台地北部のこれら事例をみる限り、中期から後期の大規模集落では北側に支谷を背負い、中期では環状に、中期末から後期では低地面に沿って帯状に集落が展開しており、北側の低湿地では集落と関係の深い水辺空間が遺存する可能性が高いと想定されよう。
さて、デーノタメ遺跡の低地部は第4次調査における170㎡という狭小な調査と、その直後に実施したデーノタメ(湧水池)周辺の試掘調査が行われているに過ぎず、全容を明らかにし得ていない。ただし、第4次調査区では勝坂3期~加曽利EⅠ期及び堀之内Ⅰ~加曽利B1期の遺構群及び泥炭層が確認され、調査区より北東のデーノタメ(湧水池)周辺では、西側に中期、中央から東側に堀之内期の遺物を含む泥炭層が確認されている。このため、遺跡南西部の中期環状集落及びこれと重複する後期中葉集落、さらにデーノタメの低地面に沿う後期前葉集落においては、いずれも至近の低地を利用していた傾向が認められるのである(第33図)。

第33図 集落の展開と低地の相関


2 縄文時代中期の低地利用
第4次調査区は中期集落と後期中葉集落の位置する台地直下を対象としており、デーノタメの湧水が流れ出した流路の一部と想定される。調査区にはこの主流部と支流部が凹地として確認され、主流部には縄文時代中期の泥炭層、支流部には後期の泥炭層の堆積が顕普であった。
主流部を中心とする中期層は、調査区の南部を除く全域に広がりをもち、基盤粘土層(Ⅳ層・Ⅴ層)上に約15cmの厚さで堆積する暗灰褐色砂層(Ⅲ層)に始まり、Ⅲ層上には泥炭質の茶褐色土層(Ⅱb層)、黒茶褐色土層(Ⅰb層)、暗茶褐色土層(Ⅱa層)が30~40cmの厚さで堆積する。このため、集落の形成時には小河川であったが、その後、砂を堆積する流水環境は途絶え、緩やかな流水によって湿地化が進んだと想定される。
中期の遺物はⅢ層~Ⅱa層のいずれにも包含しており、とくにⅡa・Ⅱb層中において濃密である。また、クルミ塚・砂道等の遺構もこの層位中に認められるため、この泥炭層の形成時が最も人為的な影響を受けていたと考えられる。
なお、泥炭層中に包含される遺物の大半は土器類で、勝坂3式及び加曾利E1式を主体として一部に阿玉台式を含んでおり、台地上の集落と同時期であることが注意される。土器は破片が多く、一部に同一個体を含むが、大半は接合関係が認められない。とくに密度の濃いⅡa層中では、泥炭層中に土器を敷いたように集中しており(第20図参照)、泥濘な足場を固めるための行為と想定することもできよう。いずれにしても、集落で不要になった破損土器片を低地まで運び、泥炭層中に廃棄し続けていたことが確認できる。
また、遺構として顕著なクルミ塚は6か所が検出された。いずれも中期の所産で、層位的な位置が明確な2号クルミ塚はⅡa層からⅠb層を皿状に掘り込んでおり、Ⅱa層とⅠb層に挟まれる砂道跡とは同時期と判断される,また、6号クルミ塚は最も規模の大きなもので、基盤層のⅣ層及びⅢ層を掘り込む凹地にレンズ状に堆積する。楡井氏の報告によれば(第Ⅳ章3節参照)、Ⅲ層段階では低地にはハンノキ属が繁茂していたが、Ⅱb層以降はクルミ属が優占するようになる。縄文人の集落形成とともにハンノキ林を有用なオニグルミ林へ改変していった過程が窺える。クルミ塚の形成段階では、湿地林はすでにオニグルミが優占しているため、縄文人は低地でクルミを採集したのち、付近でクルミ核を破砕し、その核を再び低地へ運んで廃棄した行為が想定されよう。なお、砂道跡はこうした土器類やクルミ核等の廃棄行為に際し、泥炭層上を行き来するための遺構と想定することができる。
したがって、調査区における縄文時代中期面は、主としてオニグルミ等の採集適地であるとともに、土器や石器類の生活道具や食料に供していた植物遺体の残滓を廃棄した場であったと想定される。ただし、6号クルミ塚ではクルミ形土製品が、付近からは別のクルミ形土製品、土製玦状耳飾、硬玉製大珠等が検出されており、この空間が廃棄の場であるとともに儀礼の場であった可能性を示唆しているであろう。

3 縄文時代後期の低地利用
後期の泥炭層は調査区南部の支流部に遺存しており、3号遺跡、1号木組、6号土坑、トチ塚等の遺構が検出されている。3号溝跡の基底をなす支流部は、台地縁辺の小流路跡と想定され、基盤粘土層のⅣ層上に中期の暗灰褐色砂層(b2層)と後期の黄褐色砂層(b1層)が厚く堆積し、b1層を浸食するように泥炭質の3号溝跡が東西にのびている。
支流基底部のb2層(中期)は中期面におけるⅢ層相当の層準と想定され、土器類の出土が顕著であるが、後期前葉~中葉のb1層及び3号溝跡ではともに土器類はほとんど認められず、中期層とは対照的である。ただし、後期層では植物遺体を豊富に包含しており、中期面の主体であるオニグルミ核に加え、トチノキ果皮の出土が顕著である。トチノキ果皮はb1層及び3号溝跡覆土(a1・a2層)ともに検出され、b1層中ではとくに集中する。同層の調査区南壁では長さ8.0m、厚さ約15cmの規模でトチノキ果皮の集積が認められ、主体部は調査区外にのびており、トチ塚の一部と判断した。集落の所在する台地直下の低地においてトチノキの皮剥き作業を行った痕跡であろう。なお、トチノキの中には完形の幼果を含んでいるため、台地の林縁にはトチノキ林が存在していた可能性が高い。楡井氏の報告(第Ⅳ章3節参照)で示されたように、中期のⅢ層段階ですでにトチノキの花粉が出現し、その後、しだいに増加していく傾向と整合するものであろう。
また、3号溝跡では東端に1号木組が検出されている。同遺構の遺存状況は良好でないが、検出時には3号溝跡の規模に応じた木組の枠材が確認され、トチノキ果皮の集中を伴っていた。さらに木組の基底部には流れに直交する丸木材及び割材を平行に敷いているため、トチノキの「水さらし」遺構と想定したが、基底部の材は3号溝の南方へさらにのびており、当初はb2層とb1層の間層に構築されたデッキ状の木組であることが明らかとなった。工藤氏の報告によると、これら構築材の年代分析では基底部のウルシ材と上部の枠材では年代に開きがあり、これを裏付けるが(第Ⅳ章第1節)、1号木組が再利用を含めて長期間利用されたものか、さらに検討が必要である。
なお、調査区南東部の6号土坑は後期前葉の所産で、主体部は調査区外にある。覆土中にトチノキ果皮や土器片を含むものの性格は判然としないが、その形態から貯蔵穴としての機能を果たしていたと想定される。
以上が調査区における後期面の様相である。総じてトチノキの皮むきや水さらし等の作業痕が明瞭で、台地直下の支流部における植物の加工、貯蔵等の生業活動が行われていた空間であったと想定される。

第34図 第4次調査区の遺構と遺物

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