北本市史 通史編 古代・中世

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第3章 武士団の成立

第3節 古代末期の争乱と武蔵武士

保元・平治の乱と武蔵武士
鳥羽(とば)法皇の院政の末年、皇位継承の問題をめぐり後白河(ごしらかわ)天皇を立てた鳥羽法皇と、それに反対する崇徳(すとく)上皇との間で反目が強まっていた。摂関家においても、関白藤原忠通(ただみち)と弟の左大臣藤原頼長(よりなが)が、関白の地位をめぐり対立していた。鳥羽法皇は、頼長を信任し、頼長は久安六年(一一五〇)兄忠通を越えて氏長者となり、翌年正月には内覧に任じられた。関白忠通は名ばかりの存在であった。ところが、仁平(にんぴょう)元年(一一五一)七月、頼長が鳥羽側近の中納言家成と乱闘事件を起こし、それが原因で院から忌避(きひ)され、代わって忠通が院の信頼を得ていた。しかも忠通の推した後白河天皇の即位によって頼長は決定的打撃を受け失意の頼長と不遇な崇徳上皇は相提携して鳥羽院体制に対し反逆を準備していた。
保元(ほうげん)元年(一一五六)鳥羽法皇が没すると、後白河天皇・関白忠通派と崇徳上皇・悪左府頼長派の対立は頂点に達した。上皇は頼長と謀り源為義(ためよし)・平忠正(ただまさ)等を招いて挙兵。後白河天皇と忠通は、為義の子の源義朝(よしとも)と伊勢平氏の嫡流平清盛(きよもり)等を招いて対抗し、保元の乱が起こった。戦いは義朝の献策による白河殿の先制夜襲により天皇側の勝利に帰した。敗れた崇徳上皇は仁和寺(にんなじ)に逃れ落飾(らくしょく)したが、のち讃岐(さぬき)(香川県)に配流された。頼長は流れ矢に当たって死に、為義・忠正等は降服後、斬首された。
この乱の勝敗を決した原因について、忠通の子である天台座主慈円は著書『愚管抄(ぐかんしょう)』で、「鳥羽院ウセサセ給ヒテ後、日本国ノ乱逆卜云事ハオコリテ、後ムサ(武者)ノ世ニナリケル也」と記し、勝敗の帰趨(きすう)を決したのは武士であり、この後は武士の世に変わったと伝えている。即ち保元の乱は、武士階級が初めて歴史の表舞台に登場し、かつ時の政権の帰趨を決するカとなった点で大きな意味をもっていた。この時、義朝に従っていた軍事力の中核は関東武士であった。『保元物語』には、武蔵武士として秩父一統、長井斎藤氏、武蔵七党の横山・丹・児玉・猪俣・村山・西の諸党の面々が名を連ねていた(古代・中世№四六)。
乱の勝敗を決した原因について、忠通の子である天台座主慈円は著書『愚管抄(ぐかんしょう)』で、「鳥羽院ウセサセ給ヒテ後、日本国ノ乱逆卜云事ハオコリテ、後ムサ(武者)ノ世ニナリケル也」と記し、勝敗の帰趨(きすう)を決したのは武士であり、この後は武士の世に変わったと伝えている。即ち保元の乱は、武士階級が初めて歴史の表舞台に登場し、かつ時の政権の帰趨を決するカとなった点で大きな意味をもっていた。この時、義朝に従っていた軍事力の中核は関東武士であった。『保元物語』には、武蔵武士として秩父一統、長井斎藤氏、武蔵七党の横山・丹・児玉・猪俣・村山・西の諸党の面々が名を連ねていた(古代・中世№四六)。
ところが保元の乱後、後白河院の寵により権勢を握った院近臣の藤原通憲(みちのり)と平清盛に対し、乱後の行賞に不満を持つ義朝と藤原信頼(のぶより)とが結び、通憲と清盛を除こうとした。平治元年(一一五九)十二月九日、清盛が一門を率い熊野参詣(くまのさんけい)に赴(おもむ)いた留守に乗じて信頼・義朝等は挙兵し、二条天皇・後白河院を幽閉して通憲を大和に追い自殺させた。やがて除目(じもく)が行われ、義朝は従四位下播磨守に任じ、嫡子の頼朝は右兵衛佐となった。この時義朝の家人であった足立遠元が馬之允(うまのじょう)になった。遠元の任官は義朝の推挙によりことはもちろんであるが、姻戚の後白河院近臣の藤原光能との関係もあったと思われる。
信頼・義朝のクーデターを知った清盛は、急遽(きゅうきょ)取って返し、信頼派の藤原経宗・惟方を懐柔(かいじゅう)して天皇・中宮等を六波羅(ろくはら)の私邸に移し、天皇を推戴して信頼・義朝追討の宣旨(せんじ)を得、官軍として内裏(だいり)に義朝等を攻擊した。上皇も仁和寺を脱出したため、信頼・義朝軍は全く孤立し、六条河原で敗れ去った。信頼は捕えられて斬られ、義朝は東国に逃れる途中、尾張で殺された。また悪源太義平も殺され、嫡子頼朝は伊豆に流され、牛若(義経)は鞍馬寺(くらまでら)に入れられるなど、源氏勢力は衰退した。
この戦いの時、武蔵武士は悪源太義平に従い、平重盛が内裏の待賢門(たいけんもん)に攻めて来た時には、足立右馬允遠元、金子家忠、長井斎藤別当実盛、熊谷次郎直実等一七騎の騎兵が、重盛勢を押し返し勇名を馳せた。

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