北本市史 通史編 古代・中世
第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領
第2節 後北条氏の武蔵進出
後北条氏の北武蔵進出岩付城主太田資正(すけまさ)の支配領域は、資正・氏資父子およびその後継者太田氏房(うじふさ)(北条氏政の子息)の発給文書によれば、武蔵国のうち足立郡の大部分と埼玉郡・比企郡・入間郡の一部に及ぶ広大な地域であった。しかし、近接の河越城・松山城を掌握した北条氏康は、その余勢をかって太田氏に圧力をかけ、天文末年ごろにはその支配領域にも介入している。
写真51 小池長門守・加藤修理亮の墓 中丸
しかし、天文末年ごろ太田資正が北条氏康と講和を結んで服属したため、両者の緊張関係は減少した。そして、天文十八年(一五四九)ごろより資正の領域支配が開始されたため、北条氏康の岩付領(太田氏の支配領域)への支配は後退することになる。以後、足立郡の掌握を伝える後北条氏の発給文書は、永禄初年に氏康と資正の抗争が再開されるまで見られなくなる。