北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第2節 後北条氏の武蔵進出

後北条氏の北武蔵進出
岩付城主太田資正(すけまさ)の支配領域は、資正・氏資父子およびその後継者太田氏房(うじふさ)(北条氏政の子息)の発給文書によれば、武蔵国のうち足立郡の大部分と埼玉郡・比企郡・入間郡の一部に及ぶ広大な地域であった。しかし、近接の河越城・松山城を掌握した北条氏康は、その余勢をかって太田氏に圧力をかけ、天文末年ごろにはその支配領域にも介入している。

写真51  小池長門守・加藤修理亮の墓 中丸

天文二十年(一五五一)九月一日、氏康は市宿(いちじゅく)新田(鴻巣市)の小池長門守に虎朱印状を与え、新田の開発を督促し、新田に移住した住民には諸役(各種の雑税)を免除し、田畑を開発したものには食糧を給付することを通告した(古代・中世No.一七四)。『新記』によれば、小池長門守は久宗と称し、もともと岩付の市宿に居住していたが、北条氏康に仕えその命により同年岩付より当地に移住し、原野を開いて市宿新田と名づけたという。また、小池長門守の子息加藤修理亮宗安の子孫は、近世になると足立郡下中丸(北本市中丸)に土着しており、当地の安養院(新義真言宗)は小池長門守夫人が創建したとも伝えられている。加藤氏は、鴻巣七騎(鴻巣郷周辺に土着していた在地武士、本章第三節)の一員としても知られる在地土豪である。これらの伝承は真偽のほどは不詳だが、北条氏康が市域周辺の在地土豪を掌握して太田氏の領域内への在地支配を強め、郷村の開発をとおして年貢増徴をおし進めた様子がわかる。
しかし、天文末年ごろ太田資正が北条氏康と講和を結んで服属したため、両者の緊張関係は減少した。そして、天文十八年(一五四九)ごろより資正の領域支配が開始されたため、北条氏康の岩付領(太田氏の支配領域)への支配は後退することになる。以後、足立郡の掌握を伝える後北条氏の発給文書は、永禄初年に氏康と資正の抗争が再開されるまで見られなくなる。

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