北本市史 通史編 古代・中世
第7章 北本周辺の中世村落
第2節 庶民の信仰
上足立郡の修験と石戸郷伊藤氏我国を二分して争った南北朝対立が、明徳三年(元中九・一三九二)に合一された七年後の応永六年(一三九九)に、上足立地域にも修験の活動が見られた。それは同年五月十日に勝覚院幸湛が、那智山の有力御師廊之坊に対し、武州上足立一円・同金亀山一円・奇西(崎西)・比幾(比企)郡などの大円坊並びに門弟引の檀那職と、「ミた」の連源坊引弥田(みだ)一円の檀那職などを、合せて二〇貫文で永代売渡した。さらに足立の名字を名乗る参詣者についても廊之坊の知行を認めている(古代・中世No一四六)。当時那智修験において足立郡の檀那が上・下に分れていたことと、箕田(みだ)郷に連源坊という霞下がいたことが窺える。しかし、文明年間(一四六九〜八七)の道興准后の巡遊以後、上足立に大きな勢力を発揮した大行院は、この期にはまだその活躍が窺えない。箕田の連源坊は、初め本銭返しといって、或る一定期間所有の檀那職を代銭をもって買主に讓渡し、期限後買主に売却時点の代価を支払って買戻すことの出来る売買を行っていたが、この時それを永代売買に変じている。当時の檀那売買の一つの姿を伝えていて興味深いものがある。
この後の上足立郡一円の檀那職は、康正二年(一四五六)六月に、新倉・那賀・山田郡一円の檀那職と共に代銭合計五〇貫文で永代売渡されている。この武蔵国の先達檀那は浄花坊の重代相伝のもので、浄花坊宰相公から廊之坊へ売り渡された(古代・中世No一六一)。なお前述のように上足立郡は応永六年(一三九九)に勝覚院幸湛から廊之坊へ売却されているので(古代・中世No一四六)、その後浄花坊への移動があったのか、或いは各御師家毎の上足立一円の檀那職売買を示すものであろう。
次いで文正元年(一四六六)五月、橋爪八郎が足立郡須田一門の檀那職を質として、某から月別五文の利子で一貫文を借用している(古代・中世No一六四)。貸主は不明だが、六年後の文明四年(一四七二)十一月の売券に、同じ橋爪八郎が足立郡および須田一族の檀那職を銭三貫五〇〇文で鳥居殿に売渡しているので(古代・中世No一六五)、貸主は鳥居殿と解してよいだろう。この須田一門については、武総国境を流れる隅田川東岸の下総国墨田を苗字の地とする鎌倉御家人の須田(隅田・角田とも)氏一族と考えられ、下足立郡との関係があるとされるが、『桶川市史』は上尾の須田一族とする説をとっており、上足立説も捨て切れない。
前出の橋爪八郎は、鳥居殿と共に熊野那智の御師であったが、この鳥居殿の同一人物と思われる鳥居御房が、応仁二年(一四六八)三月河関田畑の清水三郎二郎から、重代相伝の武蔵国一円の檀那職を九貫文で買得している。その知行分在所書上げを見ると(古代・中世No一六六)「ふかい一円」の語が認められる。これを足立郡深井と解することができれば、市内深井に比定でき、当地の初見史料となり市域への具体的熊野信仰の浸透を示すことにもなる。深井はまた岩付太田氏の家臣深井対馬・同藤右衛門の本貫の由緒をもつ地であった。
このほか市内における熊野信仰を伝えるものとして注目すべきは、天文二十二年(一五五三)四月の「旦那願文写」ならびに年未詳の「旦那引付注文写」(古代・中世No一七五・ 一七六)である。「旦那願文写」には熊野三山の武蔵国檀那一四人が御師実報院に、参詣の時には先逹養門坊の仕置に従うとしている(古代・中世No一七五)。その中に「いしと新左衛門」の名があり、石戸郷の新左衛門が実報院と師檀関係をもっていたことを伝えている。またこの願文には武州みた(荏原郡三田、或いは足立郡箕田)、同ほや(新座郡保谷)、同あさ八(入間郡浅羽)、同ふかや(幡羅郡深谷)、同宮寺(入間郡宮寺)等の地名を伝えており、同地における修験信仰の存在を示している。
写真81 年不詳旦那引付注文写
米良文庫(和歌山県熊野那智大社蔵)