北本市史 通史編 古代・中世

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第7章 北本周辺の中世村落

第1節 村落と農民生活

後北条氏の伝馬制と石戸宿
戦国時代になると、後北条氏をはじめ各地の戦国大名等は、本城と支城や各地の村々を結ぶ街道を整備して伝馬制を施行した。街道の一定距離ごとに設置した宿場に逓送(ていそう)用の馬を常備し、宿郷の住民に伝馬役(馬や人夫を提供する労役)を賦課したのである。伝馬制度は平時の連絡としてはもとより合戦の際には兵員や武器・食料を輸送するうえで重要な役割を担っていた。
北条氏綱は大永四年(一五二四)四月十日、扇谷上杉朝興を攻撃して江戸城を占拠すると、まもなく相模の当麻(たいま)宿(神奈川県相模原市)に伝馬役の規定を定めた制札を出し、小田原・玉縄(たまなわ)(鎌倉市)より北武蔵の石戸(北本市石戸宿)と毛呂(入間郡毛呂山町)に往復する者が虎印判を持たずにその負担を強要することを禁止し、違反者は逮捕して小田原か玉縄に連行するよう命じた。そして、 虎印判を持っていても発給日から三日経っていれば無効である、と追記している(古代・中世No一六七)。当麻宿は、平塚(神奈川県)から八王子(東京都)を経て毛呂に通じる街道の宿駅である。また、石戸は河越から鴻巣・忍(行田市)を経て上野国に至る街道に位置している。氏綱は、河越・松山・忍・岩付城に通じ、北武蔵を支配するうえで重要な交通路であるこれらの街道を掌握しようとしたのであろう。ただし、この制札は当麻宿にあてたもので、このように整備された伝馬制度が、扇谷上杉氏・岩付太田氏の勢力が強い石戸においても施行されていたかどうかは明確ではない(本編第六章第二節)。石戸は、石戸宿と呼ぱれていることから、当時から宿場として発展していたと考えられる。当麻から河越を経て、石戸に至る後北条氏の進軍ルートは、石戸宿を通っていた鎌倉街道との関連も考えられよう。後北条氏の領国支配が強化されるに伴い、伝馬制度も着々と整備され、各地に伝馬掟が出されている。

写真80 太田資正判物 川島町 道祖土武家文書

(埼玉県立文書館保管)

岩付城主太田資正も、後北条氏にならい伝馬制を施行した。弘治(こうじ)三年(一五五七)四月八日、資正は比企郡三尾谷郷(川岛町)の代官道祖土図書助に、伝馬役賦課から逃れるために田地を返上しようとする農民の取締りを命じている(古代・中世No一七九)。三尾谷郷は河越城から石戸城へ向かう街道に位置し、宿駅が置かれていた。

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