北本市史 通史編 古代・中世

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第7章 北本周辺の中世村落

第2節 庶民の信仰

修験の発展
修験道とは、日本古来の山岳信仰と仏教の密教的信仰が結びつき、さらに神道儀礼なども取り入れた宗教である。その行者である修験者は、山野に臥し苦修練業(くしゅれんぎょうして)呪術を体得した者である。従って修験は山岳地帯を中心に発達したが、関東平野に展開する武蔵国では平地に寺院を構えていた点に特色がある。彼らは中世から近世にかけて村落に定着し、神社の勧請(かんじょう)や民間信仰に深く関係したため、里修験・里山伏などと呼ばれた。
その流派は、中世には園城寺(おんじょうじ)(三井寺)末聖護院(しょうごいん)を本拠とする天台宗の本山(ほんざん)派と、醍醐寺三宝院(だいごじさんぽういん)を本拠とする真言宗の当山(とうざん)派の二大組織があった。武蔵国に早くから展開し盛行したのは本山派の修験寺院であった。
里修験は熊野三山(本宮・新宮・那智)と密接な関係を有し、熊野は熊野詣でをする檀那によって栄えた。檀那は御師と呼ばれる寺院から宿坊を提供された。特に那智の御師(おし)は全国にわたって参詣の檀那をもち、その道案内を担った者が先達(せんだつ)である。先達は御師と師弟関係を有し、有力な里修験は熊野修験から転化したものが多かった。先達が案内してくる檀那は御師の間で営業権として売買の対象となり、早くは鎌倉期の宝治(ほうじ)年間(一ニ四七〜四九)に見られるという。
現存している檀那売券の九割は、実報院(「米良文書」)と廊文坊(「潮崎文書」)という那智山の有力御師のものである。しかもこのほとんどは東国関係の売券で、熊野信仰の檀那の基盤が東国にあったことを示している。これは中世以降に支配層となった武士階級が、従前の貴族に代わって新たな檀那として注目されたためであった。熊野御師は配下の山伏を先達として東国を中心に諸国に散在させ、有力武士団の檀那化に努め、強固な師檀関係を結んだのである。例えば、嘉元(かげん)三年(一三〇五)四月二十八日付の「旦那売券」(「潮崎文書」)に「たけつねたんなちとして、それよりこのかひちちふ、かわこゑ、たかや山、ゑと」の秩父党の各氏が檀那として記されている。鎌倉時代の武士団は惣領制に基づく族的結合が強かったから、御師や先達は武士団の一族を一括して檀那としたのである。
ところが檀那の拡大とその階層も時代が降るにつれて変化が見られる。「熊野那智大社文書」に見える関東地方の檀那売券・議状・願文等の発給点数の推移を見ると、十三世紀末から十四世紀後半にかけて漸次増加を示し、十四世紀末から十五世紀にかけて急増し、やがて十六世紀後半にかけて急減する。この増減傾向は檀那数の増減と軌を一にするものと思われる。即ち室町中期以降になると惣領制が崩壊し、武士団の庶流の自立によって各地に独立小領主が割拠するようになり、檀那の掌握が困難になってきたことと、戦国期に入ると戦国大名が強固な領国支配体制を布いて厳しい支配統制を行ったことも衰退の一因であろう。そのため先達は新たな檀那層の開拓を目指してくる。
十五世紀頃から檀那の表記に変化が見られ、「武蔵国江戸一円、同太田名主、其外地下一族」「太田六十六郷をも一円二」(「米良文書」、応永二、十二、三、旦那売券)の如く、従前の有力武士団の苗字に止まらず、「一円」はより広範な檀那掌握、「地下一族」は太田苗字の檀那が、その配下の地下にまで拡大されたこと、「太田六十六郷」は郡郷を単位とした地域掌握にまで及んだことを示している。今までの有力武士層から農村に次第に勢力を蓄えつつあった土豪や有力農民にまで浸透拡大していったことを窺わせる。
このころになると御師による檀那掌握は困難となり、代わって在地に住みながら檀那を獲得する先達の活動が盛んになった。那智の御師にとって先達の引率してくる檀那は利益をもたらすものであり、先達職が資産の一つと見なされていた。
「米良文書」や「潮崎文書」から市域周辺の先達を挙げてみると、次のような名がある。
足立大宮のあきの僧都門弟、ミたの連源坊、河越上総僧都并弟子同行、(矢口)六郷蓮林坊門弟、ささめの福蔵坊、水子の就玉坊等
これらはいずれも修験道場で修行し、先達職を認められたものであったが、戦国期に入ると檀那を熊野詣でに案内するのみでなく、村に定着し寺院を構えて、村を中心とした活動に重点をおくようになってくる。
御師の収入源は、檀那参詣による宿泊にあったのに対し、先達の収入は熊野参詣そのものに拠っていた。この檀那先達権を先達職といい、それを集中的に持つ大先達は京都の若王子、住心院、積善院等であった。彼らは熊野と関係の深い聖護院門跡をいただき、熊野三山検校(けんぎょう)をも兼ねていて、諸国の先達を系列下に置いていた。そして文明年間(一四六九〜八七)を境いとして先達職を一族単位から国郡単位に移していった。それは京の大先達が檀那の参詣宿泊に収入を依存していた体制を諸国の在地情勢の変貌から改め、諸国に散在する先達から収入を得る方法に移行していったためである。このため聖護院門跡は諸国の修験を再編成する必要を感じ、文明年間に門跡道興准后(どうこうじゅごう)自らが東国巡遊を行った。この時の道興の紀行文である『廻国雑記(かいこくざっき)』によると、道興は文明十八年(一四八六)六月に関東に下り、また十月末に相模から武蔵高麗に入り、県内の修験や武士の館を歴訪している。とりわけ六年前の同十二年七月に入東郡と多摩郡清戸(きよと)に年行事職を補任し、熊野参詣檀那職以下を知行させている(『武州文書』)十玉坊(川越市南大塚、或いは志木市幸町近)に長期間滞在し、同十九年正月二十八日には崎西郡年行事職を十玉坊賢承に安堵している(『武州文書』)。この道興の東遊により県内の修験は、本山派の枠内に組み入れられることになった。
なお、聖護院が修験支配の方法として用いた年行事職の補任とは、一定地域の諸修験を取り仕切る権利を聖義院が承認したものである。

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