北本市史 通史編 近代
第1章 近代化の進行と北本
第2節 地租改正の実施と村財政
1 地券の発行
地価算定地価の算定については、田一反歩の収穫米に米価を乗じて収穫高をしめし、種肥代・地租・村入費を控除(こうじょ)して土地の収益を求め、それを一定の利子率で資本還元したものを地価とするものであった。種肥代が一五パーセントにおさえられ、労賃・農具代などが考慮されず、実勢より利子率が低くおさえられていることにより、高い地価が算定される仕組みになっていた。特に、埼玉県では旧来の軽租が否定されたため、明治八年(一八七五)三月まで地租改正事業の目立った動きがみられない。
全国的な地租改正事業の停滞により、旧租額の維持もおぼつかなくなると考えた政府は、抜本的な実施方法の転換を迫られていたのである。明治八年三月に大蔵・内務両省にまたがり、不便の生じていた改正事務を一元化するために統一がはかられ、地租改正事務局が設置された。これにより、事業を積極的に推進する体制が整えられ、政府の方針は全面的に貫徹されていく形になっていった。
明治八年(一八七五)七月に、地租改正条例細目が制定され、各村間のつりあいをはかり、あらかじめ予定しておいた収穫高に調査した収穫量を変更させるように、地位の等級による制度が適用されるようになった。この地位等級制度は、地押丈量後、等級(相対的位置付け)の決定が行われ、府県レベルの平均反収を確定し、随時下部へ割り当てていくというもので、額の決定も、地租改正事務局の画一的な指導のもとで、府県の自主的な動きは許されなかった。
特に埼玉県では、明治九年(一八七六)九月に「地位等級定方人民心得書」以下の諸条例が発せられ、遅れていた事業を積極的にとり行う体制を作り、完成を急いだ。しかし、地位等級が地価の算定につながるわけであるから、「人民旧ニ仍(よ)ルノ情未(いまだ)改マラス争ヒテ地位ノ低カランコトヲ欲シ議論紛起シ囂々(ごうごう)トシテ徒(いたづら)ニ数日ヲ経過セリ」(『県治提要』P二三七)という反応がおこったのは当然であり、農民たちから見れば、地位が低くなることを欲して、議論が紛糾(ふんきゅう)していたずらに日が過ぎていくのも当然であった。そこで、県は「全管ノ収穫ノ積ヲ土地ニ分賦シ地位ノ等差ヲ定ム」(前掲)として、全管内の収穫(予定税額)を上から押し付けていくこととし、同十一年三月に県による収穫量の配布が実施された。これは現実の収穫置とはかけ離れたものだったから、農民たちの不満も想像でき、後に県令が巡回したことは必要に迫られたものであったことが推測できる。