北本市史 通史編 近代
第1章 近代化の進行と北本
第2節 地租改正の実施と村財政
3 河川管理
水利管理の実態荒川は、豊かな水源に恵まれた河川であり、利根川とともにその流れ入る河川を含めると、県域を網羅(もうら)できる重要な河川であった。しかし、水利に恵まれていたと同時に、たび重なる氾濫(はんらん)に悩まされて、治水は為政者にとっての重要事であった。
明治維新後、近代化をせまられた新政府は、さまざまな新政策を打ち出した。地方行政の統一をはかることにより、それ以前困難であった統一的な河川行政に着手することになった。「水害ヲ除ク」ことは、「天下水利ノ道ヲ起シ民庶ノ福」を生じるものと考え、各府県に指示していた。しかし、実際にはしばらくの間は、旧幕府の慣習を踏むものであった。
その後、明治六年(一八七三)に、河港道路修築規則が公布され、河川管理と費用分担の原則が定められた。大河川の改修工事に対しては国庫補助金が支給されるようになるが、その管理は府県の担当であり、小河川は依然として民費支弁とされた(『荒川人文Ⅱ』荒川総合調査報告書三P九)。この規則を、農業水利の側面から見た場合、従来、幕府や領主、用水組合など様々な形で負担していた河川管理費を、すべて受益者負担の方向に切り替え、官費を廃止する方向にあった。正堰(せき)は、当初は一〇年ないし七年まで官費支給が認められたが、やがて自普請になった。
明治初期の河川工事は、舟の交通の便をはかることと流路の固定化をはかるいわゆる低水工事が中心で、根本的な解決をはかる洪水防止のための築堤方式による高水工事が行われていなかった。高水工事が行われるのは、明治十九年(一八八六)以降である。
明治七年(一八七四)足立郡大間村から、内務省あてに堤新築の伺いが提出されており、当時の様子を知ることができる。その内容は、従来は大間村が高場で水害がなかったにもかかわらず、荒川の川床が高くなり、霖雨(りんう)でも田畑が冠水し、民家の床上にまで悪水が押し上げられるようになり、また、川瀬が変わり、従来水害のなかったところも被害のでていたことが記されている。荒川に横流をおこし、鴻巣宿裏手から元荒川へ激出し、数十か所の水害を及ぼしていたこともわかる。伺いの内容は、同三年築造の大間村内の水除堤が、かえって水害の原因となっており、取り払って新築したいということであった。費用は村民費をもって充てるとされ、受益者負担であった(近代№九一)。
明治十七年(一八八四)の荒井村地内荒川通り川除自普請臨時村議会案には、第一条に、杭木五四八本を使い、その中には共有墓地の立木をも使うこと、その代金が一一九円四〇銭であるということが記されている。第二条には、柵竹の代金、第三条には、人足代が記されている。第四条には、川除普請諸費はすべて地租に賦課するものとされ、第五条には、普請諸費補充として共有墓地の木を伐採することが記されている(近代№九三)。このことは、この段階で河川管理費が、すでに受益者負担であったことを示している。
その後、地方制度の整備とともに、水利管理機構も整備された。明治十三年(一八八〇)の区町村会法の制定、同十七年の同法改正と同二十二年の市制町村制の施行により、大規模な町村合併が行われ、自治体としての形態を整え、それに見合う機能・資力をつけるという政策がとられた。特に、十七年の改正により、戸長や県令の権限が強化されると、それが水利管理面にも反映され、県令は必要に応じて、町村会の評決を経ずに水利土功会を結成することができるようになった。そのため、この後、各地で水利土功会が結成され、同二十年には、埼玉県全域に一一三にわたる組織が結成され水利管理が委(ゆだ)ねられた。ただ、広域な組織のため、県の指導が強化され、その意志が反映された。
明治十九年(一八八六)に、荒川通では堤防組合区域達が出され、堤防土功組合が結成された。荒井村、高尾村、下石戸上村、下石戸下村、石戸宿村をもって荒川通石戸宿村字市場より同村字城ヶ谷に至る地域を堤防関渉区域とする堤防土功組合の結成であった(近代N№九四)。この結成により、河川管理は組合に委ねられた。