北本市史 通史編 近代

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近代

第1章 近代化の進行と北本

第1節 地方制度の変遷

1 府藩県治下の北本

変革期の地方行政          
民政関係は当初朝臣となった藩は従来通りの支配体制におかれたが、天領は東山道鎮撫(ちんぶ)軍下の総督府の軍政を経て、やがて府県支配のもとにおかれることになった。
北本市域の諸村を支配していたのは、旧江戸代官大竹左馬太郎(おおたけさまたろう)で、慶応三年(一八六七)から同四年七月まで、旧一橋領分を支配し、幕末の激動期を迎えた当地の最後の代官であった。この旧代官所は、東山道鎮撫総督軍や東山道総督府から発せられる布告類を次々と支配下の諸村に廻状し、初期の新政府の行政的機能をも果たしていた。東山道鎮撫軍の東北遠征の転陣にあたって、戸田渡船の加助船(かすけぶね)差出しの達(近代№五)や、官軍に抵抗した賊徒取締りについての達(近代№六)の廻状、夏成年貢の徴収(近代№七)等を最後に、同四年六月までの達でその役割を終えることになる。
しかしながら実際には七月末まで中山道中や戸田渡船場の継立事務を引き受け、民政を担当していたのであった。
新政府は、同年三月十四日、政治の基本方針を示した「五箇条の御誓文(ごせいもん)」を発布し、その翌十五日、旧幕府の高札(こうさつ)を撤去して、太政官高札を掲示した。これが新政府の民政の方針を示した「五榜(ごぼう)の掲示」であり、「太政官布告を高札場掲示につき達(近代№三)はその第一札である。「永世の法」たる第一~第三札には儒教(じゅきょう)道徳の基本である五倫をすすめて悪業(あくごう)を戒め、徒党(ととう)・強訴(ごうそ)・逃散(ちょうさん)を禁じ、切支丹(きりしたん)・邪宗門(じゃしゅうもん)の禁制をうたっており、新政府の基本方針は、旧幕府のそれと全く変わっていないことがわかる。
新政府が戊辰(ぼしん)戦争という内戦によって破綻(はたん)した地方支配体制を立て直すのは慶応四年(一八六八)閏(うるう)四月の「政体書」公布以後である。この政体書は、天皇のもと「天下ノ権力カ総テコレヲ太政官ニ帰ス」とし『聯邦志略(れんぽうしりゃく)』(アメリカ人ブリジメン著)や福沢諭吉の『西洋事情』などの翻訳(ほんやく)の新しい政治知識を借り、中央は太政官制による三権分立制をとることや、地方は府藩県三治制を採用することを内外に明示したものであった。江戸・大坂・京都を府とし、府知事(判府事)をおき、藩には知藩事、旧代官支配地には知県事(判県事)をおいた。
関東地方では、同年三月十四日の勝・西郷会談から二か月後、彰義隊も一掃されて政治的安定を迎えると、一転して軍政から民政への急激な転換がみられる。江戸府(五月十一日)、神奈川府(六月十七日)、岩鼻県(同上)が相次いで設置され、江戸鎮台(ちんだい)府は旧武蔵国に武蔵知県事を任命した(『県史通史編五』P三一)。この「武蔵県」は、実は公式に設置されたものではなく、通称として用いられたもので、旧忍藩士山田一太夫・旧代官松村忠四郎長為・旧旗本の桑山圭助の三名がこの時武蔵知県事に任命された。市域は山田知県事が管轄し、その面積は一一郡、石高三三万五三〇五石余であった。慶応四年六月の荒井村の年貢金請取(近代№七)には、同年六月十九日に武蔵知県事に任命された山田一太夫政則の名がみえる。
かくして市域が属する足立郡は、封建的支配が終わって新政府配下の山田一太夫の支配管籍に入り、新たに近代社会への第一歩が踏み出されたのである。
しかし、実際には旧代官所時代の行政支配が継承されていた。村々への太政官布告などの廻状は、慶応四年七月末まで旧大竹代官所の名で出されており、先の荒井村の年貢金請取書(ねんぐきんうけとりしょ)にも旧代官所の名が見える。行政上の布達が知県事山田一太夫役所の名で一本化されるのは、同年八月ごろからであり、事実上地方行政が旧幕府から明治新政府へ移行したのは同年七月とみることができる。

<< 前のページに戻る