北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第1節 地方制度の変遷

1 府藩県治下の北本

大宮県の設置
武蔵知県事は明治二年(一八六九)一月十日、山田一太夫に代わり、宮原中務忠英(みやはらなかつかさただひで)が任命され、前後して大宮県が置かれ、北本市域はこれに属した。
明治二己巳(きのとみ)年正月一〇日、同人(山田一太夫)ヲ免シ、宮原中務ヲ代り(以テ脱カ)、知県事ニ任ス、其際、同国榛沢(はんざわ)・那珂(なか)・賀美(かみ)数郡ヲ除キ高三拾三万五百弐拾八石五斗弐升九合五勺三才ヲ管轄ス
同年同月廿八日、大宮県卜称ス、国郡前ニ同シト雖(いえども)石高弐万三千四石ヲ(百脱カ)減シ、三拾壱万拾弐(七脱力)石四斗八升八合三勺四才ナリ、同人職ヲ免セラル

(『県史資料編一九』№八)


写真2 大宮県の印

(矢部洋蔵家 78)

成立した大宮県は三一万石余の県となったが、支配区域の面積が依然として石高表示であることは、旧代官時代と実態は変わらないといえる。明治元年十月二十八日、「藩知職制」を定めて職員の進退、分課などを太政官(だじょうかん)に報告するものとした。これは旧来の藩制を徐々(じょじょ)に否定しながら、中央集権化を目指すもので、同二年二月五日には、「府県施政順序」が公布され、府県事務の概目(がいもく)と施政方針と官員数が示されたが、これも、旧代官支配の体制を一新する目的の施策であったといえる。この時の府県官員数は、一〇万石以上の県で知県事以下ニ二人体制であった。同年八月当時の大宮県の陣容は、知県事間島各道(ましまただみち)(名古屋藩士)、権大参事小山春山(こやまはるざん)、大属山県小太郎(旧岡藩士)、脇坂円三(旧一橋藩士)のもとに、前知県事山田のもとで判県事をつとめた福田又左衛門以下二〇名の下吏が所属した。福田以下はいずれも江戸時代の代官手代以下であり、大属以上は新政府の派遣した地方官僚、庁舎は明治二年六月に至って
大宮宿の名主宅(北沢甚之丞(じんのじょう)宅)に仮庁舎を建設したが、全般事務は前山田知県事時代同様東京馬喰町(ばくろうちょう)(現東京都中央区)の御用屋敷(旧郡代屋敷)で執(と)り行われていた。この大宮県設置以後は、村々へ廻送される布達や布告はすべて県名が記されるようになり、県そのものが地方行政機関として機能しはじめたといえる。
また、大宮県は、村々に名主役入札制の指令や、なかなか普及しない金札(太政官札)の時相場流通許可指令などの新政府の政策の浸透につとめた。市域の本宿村においても名主役改選が実施された。本宿村は小前百姓ばかりで入札が難しいので、組頭の三人が年番で勤めることになり、村方隔年勤めの願いを県に提出し、受理されている(近代№一一)。その他、大宮県の出した指令をみると、農民が出訴する場合の手続の厳守や、強盗、押し込みの捕縛には褒賞金(ほうしょうきん)を出すなど、この時期の新政府が治安維持に腐心(ふしん)していた様子が知られる。

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