北本市史 通史編 近代

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近代

第1章 近代化の進行と北本

第3節 小学校の設置と近代教育の発足

3 教員の資格・任用・待遇

教育令期の場合
教育令期においても小学教員は、原則として師範学校の卒業証書をもつ者とされたが、その取得者は実際には少数であったので、それによって教員の需要を満たすことはできなかった。師範学校の卒業証書をもたなくても、教員に相応する学力をもった者には検定試験によって一定の免許状を与え、教員への道を開いた。教員の年齢は男女の別なく一八歳以上とされた。しかし、明治十三年(一八八〇)の第二次教育令においては、「品行不正ナルモノハ教員タルヲ得ス」(第三七条但書き)と定められ、学力・年齢に加えて新たに「品行」が教員の重要な資格要件となった。

写真22 習字科の免許状

(『中丸小学校80年史』P25より引用)

教員の任用については、明治十二年の第一次教育令は特に条文を用意せず、前年の学事通則中の小学教員撰任法によったが、同十三年七月二十六日に公立小学校教員委嘱(いしょく)規則(『埼玉県教育史第三巻』P六〇七)を県定し、「公立小学校教員ハ、其校部内町村人民ヨリ契約ヲ以テ委嘱スル」こととした。その委嘱は、学務委員が町村人民に代わって戸長と協議の上契約を結び、その契約書の写しに被嘱者の履歴書を添え、戸長と学務委員が連署し、郡長を経て県令の認可を得る、という形で行われた。教員委嘱契約書は、この市域からは発見されていない。
こうした契約による教員任用の期間は短かく、第二次教育令では、「町村立学校ノ教員ハ学務委員ノ申請ニ因(よ)り、府知事県令之ヲ任免スへシ」と規定され、翌十四年十月二十五日には埼玉県町村立学校教員任免規則及月俸規則旅費規則が定められ、県下に布達された。それによれば、学校長及び教員は男女の別なく年齢一八歳以上であって、これらの教員を採用しようとするときは、一定の書式に従って郡役所を経て申請する。その際申請書には教員の履歴書を添え、校長若しくは首座教員がこれに連署する。訓導・準訓導の授業を補助するために授業生を置くときは、「学務委員ノ具状ニ拠り郡長之ヲ進退シ、県庁ニ開申スヘシ」(教員任免規則第一七条)とされた。教員の資格・身分にかかわらず、授業生を含めておよそ教員の任用に当たって、学務委員は実質的な意味での任用者であった。
ところで、当時の学校の教員は依然として師範学校の卒業証書をもつ者は少なく、その多くは教員試問によって一定の教科について免状を得た者、ないし授業生であった。
教員の待遇については、第一次教育令は何も規定せず、また本県も特に教員の給与規定を設けず、専ら学務委員と教員の自由な契約によって決められた。したがって、各町村は経費節減のために概して低額契約することに努め、なかには給料の高い訓導よりも安い授業生などを採用したがる、という傾向もみられた。そのため、教員給料の学校間格差はかなり大きかった。そこで明治十三年(一八八〇)の第二次教育令では、町村立小学校教員の月俸は府知事県令が定めて文部卿の認可を経ることとし、その統一化を図った。それが同十四年十月に定められた町村立小学校教員月俸規則旅費規則である。これによって公立小学校教員のうち、訓導と準訓導の月俸額及び旅費の日当額が一律に定められた。が、校長と授業生の月俸額は「左ノ例ニ準シ、学校毎ニ之ヲ規定シテ伺出(うかがいい)ツヘシ」とされ、一応の基準を示すだけであった。「月俸規則」に定められた月俸額は、訓導(一等~七等)の場合、上等給三〇円~八円、下等給二八円~七円、準訓導(一等~七等)の場合一五円~五円、授業生(一等~三等)は四円~二円であった。助訓は高等で一五円~一〇円、中等で一〇円~七円、初等で七円~五円であった。
各町村はこれに準拠してそれぞ月棒額を定めたが、基準通りに定めた町村もあれば、県定基準より定額のところもあった。北本市域における各小学校教員の月俸がどのように支払われたかは、資料不足のため明らかにすることができない。が、「中丸学校費十四年予算議案」では月給九円一人、一円二五銭二人で教員給料が算出されている(近代№一七三)。この額を先に示した県定の月俸額と比べてみると低額であるが、右の中丸学校の予算案は十四年一月の時点であるから、県定の統一月俸額が定められる以前のものである。それにしても低額といわざるを得ない。

<< 前のページに戻る