北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第3節 小学校の設置と近代教育の発足

3 教員の資格・任用・待遇

「学制」期の場合
明治五年(一八七二)の「学制」によれば、小学校の教員は男女とも年齢二〇歳以上で、「師範学校免状」ないし「中学免状」をもっことを基本条件とした。すなわち、そのいずれかの免状をもっことが正教員の資格とされた。そして、その教員の教える内容は、西洋の新知識=文明開化の内容であった。また、民衆学校としての小学校を学区制によって大量に設置するのであるから、質的にも量的にも新たに教員を養成しなければならなくなった。
そこで文部省は、いち早く師範学校という教員養成機関を創設し、まず小学校教員の養成に着手した。各府県においても簡易な教員養成機関を設けて小学教員の速成を行った。改正局は、近代学校の発足に当たって埼玉県が最初に設けた小学教員の速成機関であった。
しかし、その卒業生によって県下の小学教員の需要を満たすことは困難であったから、とりあえず応急的措置として旧寺子屋師匠・僧侶・神官・士族等が駆り出され、正規の資格のないまま新しい教育を担当することとなつた。資格云々(うんぬん)より小学教員を量的に確保することが先決であった。こうした事情は有資格教員の資格条件にも反映し、明治六年(一八七三)九月の埼玉県公私小学校規則には、小学卒業免状をもたない者を仮教員、小学卒業免状をもつ者を訓導とした(『県史通史編五』P二七三)。師範学校や中学校の免状がなくても、小学校卒業の免状があれば正教員としての資格が与えられたわけである。小学校卒業程度の新知識をもち、学級組織による一斉教授法を修得していれば、当時にあっては一人前の立派な教員であった。改正局における教員の速成は、こうした教員の養成をめざして行われた。
ところで、北本市域に開設された小学校には何人位の教員が任用されたのか、また、その教員はどんな人だったろうか。『文部省年報』によってみると、四校のうち高尾学校が最も規模が大きく四、五名、他の三校はいずれも二、三名であった。それらの学校も開校当時は一名ないし二名であって、しかも四校中三校が旧寺子屋の師匠であった。すなわち、高尾学校は島田其十郎、中丸学校は星吉隆證、宮内学校は滝沢海三であった。これらの教員がどんな資格で小学校に任用されたのかは定かではないが、宮内学校の滝沢海三は最初準助教で任用され、やがて助教に昇格した。
小学校教員の待遇については、定額そのものが何回も改定されていて、その実態は非常にとらえにくい。一応、県定の基準額をみると、明治七年(一八七四)の場合、本教員は二〇円~五円五〇銭、仮教員は一二~二円五〇銭であった。翌八年の改定においても、その枠には変動がなかった。旧埼玉県と熊谷県の両県合併後の統一給与規定は、明治十一年の埼玉県学事通則中の小学教員月俸規則に示されているが、その額は訓導三〇円~一三円、訓導補一〇円~六円、授業生五円~三円、助教生二円五〇銭以下となっている。なお、授業生以上の教員の給与額は等級別に定められている(『県史通史編五』P二七五)。北本地域の教員給与が、県定基準額どおりに支給されたかどうか詳細はわからないが、明治六年十月の石戸学校の資料(近代N№一六三)には、「去月中御県庁より教師御定ニ相成、同補助両人ニて月給金七円」とあり、八年九月の「高尾学校費割」(近代№一六七)には、「金六拾円 教員弐人給料」と記されている。

写真21 補助教の辞令

(『中丸小学校80年史』P25より引用)

表22 明治初年の学校別教員数   (人)
明治年
学校
8年9年10年
石戸学校333
高尾学校454
中丸学校232
宮内学校233

(『文部省第四年報』~『文部省第十年報』より作成)


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