北本市史 通史編 近代
第1章 近代化の進行と北本
第3節 小学校の設置と近代教育の発足
5 地方教育行政の担当者
「学制」期の地方教育行政の担当者明治五年(一八七二)の「学制」は一般行政区とは別に学区を設定し、それを学校設置の基本単位とした。したがって大学は大学区を、中学校は中学区を、小学校は小学区を単位としてそれぞれ学校を設置したが、その各学区は同時にそれぞれの教育行政の単位でもあった。そこで大学区に督学局、中学区に学区取締という教育行政機関を置き、各学区内の教育行政を行わせた。
「学制」によれ・は、学区取締はその土地の名望家(有力者)であって、一中学区内に一〇名ないし一二、三名を置き、一名につき二〇~三〇小学区を分担させる計画であった。そして、その職務は「専ラ区内人民ヲ勧誘シテ務テ学ニ就カシメ、且学校ヲ設立シ、或ハ学校ヲ保護スヘキノ事、或ハ其費用ノ使用ヲ計ル等一切其受持所ノ小学区内ノ学務ニ関スル事ヲ担任」(第八章)することであった。
埼玉県(旧)では、これに準拠して公私小学規則(明治六年八月)中に学区取締のことについて規定した。そこには学区取締は区ごとに一名置き、「官庁ノ意向ヲ奉シ学校ヲ保證設立スヘキノ事、或ハ其費用ノ便儀ヲ計ル等総テ区内ノ学事ヲ担任ス」(第七二章)ること、時々区内を巡回すること、区内人民を勧誘して不就学者を学に就かせること、等その職務について詳しく定められている。明治八年十一月、これに変わって埼玉県小学規則が制定されたが、学区取締に関する規定には大きな変化はなかった。本来、県学務課の管掌事項である教員の勤惰褒貶(きんだほうへん)も職務のうちに数えられた学区取締は、広範な職務権限をもって受け持ち区内における学務の一切を担当したのであるが、なかでも就学督励と学校の設立・維持等は彼らの最も重要な職務であった。
埼玉県(旧)では、当初副区長に学区取締を兼務させたが、明治七年(一八七四)一月、各副区長兼任者のほかに、新たに学区取締専務者を各行政区(全二五区)に置くことを定めた(『埼玉県教育史第三巻』P一三七)現北本市域は第一七区と第一八区に所属したが、前者の学区取締は小谷村(現吹上町)の長嶋又七郎、後者のそれは大針村(現伊奈町)の戸井田彦兵衛であった。
旧埼玉県では、この学区取締の下に一区内数名の学校世話役が置かれた。この世話役は「学区取締卜協同シ、諸校ヲ周旋子弟ヲ勧誘、事務滞渋セサル様注意ス」ることを職務とし、「五校ヨリ十校マテ世話役存員ヲ置ク、余ハ五校ヲ増ス毎ニ壱員ヲ増ス」(県行政文書 明一八四八)とされた。しかし、この世話役制度は経費の関係で間もなく廃止され、かわって主者(正副戸長から選出)が各学校に一名置かれ、これが学区取締の実質的な補助機関となった。次に掲げる文書(島和生家 一四五)によると、、明治七年九月まで高尾村の新井弥兵衛が第一七区の学校世話役を務め、その後を同村戸長の田島昌治が兼務した。
開校年月調
埼玉県第拾七区武蔵国足立郡高尾村
私立 学校担当世話役
明治七 九月迄
一高尾学校 (年、脱力)
新井弥兵衛
明治六年酉六月廿五日開校
(年、脱力)
明治七九月ヨリ
田島昌治
右之通り相違無御座候
右村 戸長
田島昌治 印
埼玉県第拾七区武蔵国足立郡高尾村
私立 学校担当世話役
明治七 九月迄
一高尾学校 (年、脱力)
新井弥兵衛
明治六年酉六月廿五日開校
(年、脱力)
明治七九月ヨリ
田島昌治
右之通り相違無御座候
右村 戸長
田島昌治 印
明治十年(一八七七)十一月、主者を廃して新たに校務掛が置かれた。これは前年八月に県域の統廃合が行われ、熊谷県下の旧入間県域を統合して新しい埼玉県(現埼玉県)が成立したので、県全体としての教育行政の統一化・同一化を図ろうとしたものであって、その際二一か条にわたる小学校務掛事務章程が定められた。校務掛は主者から継続した者が多く、そのほとんどが戸長兼務者であった。