北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第4節 生活・文化の継承と刷新

1 神仏分離

神道国教主義の推進
明治元年(一八六八)三月十七日に、明治新政府は「神祇(じんぎ)事務局へ達(たっし)」という布達を発した。これがいわゆる神仏分離令の最初で、以後四月に到るまで数次にわたって詳細な命令が出された。この時の内容は、従来別当・社僧とされていた僧侶に還俗(げんぞく)を命じたものである。次いで同月二十八日、太政官(だじょうかん)布告を出し、神社名?神号に仏教用語を使用している神社にその由緒(ゆいしょ)を書き上げること。仏像を神体としている神社はその仏像を取り払うべきこと。神仏を判然とさせるため神社に祠られている本地仏はもとより、鰐口(わにぐち)・梵鐘(ぼんしょう)といつた本来、寺院が使用する什物(じゅうもつ)の撤去を命じた。翌四月十日にも再度このことを令逹し、閏(うるう)四月四日には、別当、社僧は還俗のうえ神主、社人に名称を変えるよう命じた。また同十九日には、神職の家族にまで神道式の葬祭を行うよう達している。

写真30 神職復飾願

明治元年(矢部洋蔵家蔵)

ところで、日本においては古来の神祇信仰は、仏教が流入普及することによって次第に変質し、奈良時代のなかごろから日本の神々が仏教による救済を求めているという考えや、また神々は仏教を守る護法善神であるとする、いわゆる神仏習合(しゅうごう)の考えがあらわれて、十一世紀後半には、日本の神々は仏が形をかえて権(かり)に現れたもの(権現(ごんげん))で、その本質は仏であると考える本地垂迹(ほんじすいじゃく)説が成立した。江戸時代には、本山末寺(ほんざんまつじ)制度により本山(ほんざん)を通じて全国の寺院を統制し、檀家(だんか)制度により寺院を通じて民衆を掌握(しょうあく)するため、仏教には特権的保護政策がとられた。このような長い間にわたる神道と仏教の融合のあゆみの中で、多くの神社には別当寺がついており、僧侶が神前で読経するなどのことはごく普通に行われていたことであった。しかし、神道を純粋の姿に戻そうと考える平田(ひらた)神道などの人々は、仏教の説くところは荒唐無稽(こうとうむけい)であり、日本民族には有害な宗教であると力説した。これらの考えに立ち幕末の尊皇攘夷(そんのうじょうい)運動の中で排仏と皇道主義を鼓吹(こすい)したのが矢野玄道や大国隆正らの国学者であった。維新の際の激烈な神仏分離は、平田学をその理論的根拠としたものといわれた。
こうしたことを背景として成し遂げられた明治維新の宗教方針は神武創業への復古、祭政一致をスローガンとした。それは政治の面において、日本が近代的中央集権国家を形成するため、その統合の象徴として天皇の存在を前面に持ち出して来たことと表裏一体の関係を持った。維新政府は神社信仰、神道を国教とし、それを天皇を中心とする政治体制を翼賛(よくさん)するものとして国民の思想的宗教的統一を図った。こうして維新政府の神仏分離令は、一〇〇〇年以上にわたって行われて来た神仏習合の習俗にピリオドを打ち、神社から仏教的要素の一掃を図った。神仏分離は、その実施過程で地域によっては廃仏毀釈(はいいぶつきしゃく)とよばれる寺堂・仏像・経典(きょうてん)・仏具などの破却・焼棄(しょうき)といった過激な行為や僧侶を排斥(はいせき)する事件に発展していった。


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