北本市史 通史編 近代
第1章 近代化の進行と北本
第4節 生活・文化の継承と刷新
2 徴兵制と西南戦争
国民皆兵の動き写真31 兵役免除証
(岡野武弘家 31)
この徴兵令が出された明治六年(一八七三)から翌年にかけて岡山・香川など西日本一三県で徴兵(ちょうへい)反対一揆(き)(血税一揆)が起こった。またこの徴兵令の特徴は次のような広範な免役規則に示されていた。すなわち、戸主・嗣子(しし)・養子・特定の学校生徒・陸海軍学校生徒・官吏・洋行修業者・代人料二七〇円を支払った者などは免役とされた。つまり、官吏及び官吏予備軍としての学生、税納入責任者及び家父長としての戸主やその後継者は国策上除外され、また代人料の払える富裕階級は免除された。国民皆兵制は名ばかりで、実際に徴兵されたのは貧しい農家の次・三男であった。地租負担者以外の家にあまった者を徴兵する賦役(ふえき)的性格の強いものであったといえる。したがって、徴兵を忌避(きひ)しようとする者も出て、いかにして戸主やその相続者になるかの様々な方策が考えられ、『徴兵免役心得(ちょうへいのがれのこころえ)』などという出版物も刊行されるほどであった。そこで政府は再度にわたって徴兵督促(ちょうへいとくそく)の布達を発し、男子が兵に徴(ちょう)さるのは人の誉(ほま)れ、国民の義務であるから、よろしくお上の仰(おお)せを守り国恩に報ずべきであるとしている。
県は第一軍管区東京鎮台に属し、ほかの一七県とともに、一年間の徴兵人員は二三八〇人が予定されていた。徴兵使は陸軍中佐か少佐で、各府県に一人派出され、徴兵事務を総括した。県では浦和に徴兵署が置かれ(『浦和市史第四巻』P六五一)、県内数か所に徴兵検査所がおかれた。
徴兵令が布告された翌年の明治七年(一八七四)五月、征台(せいたい)の役(「台湾出兵」、「牡丹社(ぼたんしゃ)事件」ともよばれている)が起こった。事の発端は明治四年十一月にさかのぼる。宮古島の官民六九名が年貢を納めるため那覇(なは)に赴(おもむ)いたが、帰途台風にあって南台湾の八瑤湾、牡丹社(ぼたんしゃ)の近くに漂着した。上陸時に三名が溺死(できし)、五四名がいくたの紆余曲折(うよきょくせつ)のあと牡丹社のパイワン族に殺害され、一二名だけが近くの漢族系有力者に助けられた。単純ともいえる遭難事件が、できたての軍隊に近代日本の最初の海外出兵を引き起こした。ここには当時の明治新政府がおかれた東アジアでの対外関係と薩長政権内部の対立などがからんでいた。日清両属の形をとって来た琉球(りゅうきゅう)王国を日本の単独支配下におくため、宮古島の官民の遭難事件は明治政府にとって淸朝との外交問題をつくり出すためまさに好都合であった。日本軍は五月二十二日、台湾南端の社寮湾に三六五〇名が上陸した。半月の戦闘で六月はじめには牡丹社を征圧した。この戦争に石戸村から二名が参加し一名が戦死し、残りの一名も病死した。
この結果明治七年(一八七四)十月に北京条約が結ばれた。日本は多額の賠償金を清朝から獲得しただけでなく、琉球の日本への帰属を認めさせた。明治政府が発足早々の日本軍の軍事的名声と国家的権威を東アジアの国際的舞台で印象づけた歴史的意味は大きい。日清戦争以後の台湾の植民地化や中国に対する侵略的方向づけの萌芽(ほうが)がすでにここにみられた。
表24 埼玉徴兵表
項 目 | 明治6 | 明治7 | 明治8 | 明治9 | 明治10 | 明治11 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
人 | 人 | 人 | 人 | 人 | 人 | ||
丁 年 | 4,361 | 5,158 | 4,398 | 4,157 | 6,779 | 7,599 | |
検 丁 | 407 | 373 | 629 | 735 | 325 | ||
合 格 | 176 | 592 | 262 | 362 | 386 | 188 | |
常備兵 | 歩 兵 | 125 | 184 | 205 | 150 | 205 | 146 |
騎 兵 | 5 | 4 | 7 | 6 | 12 | 9 | |
砲 兵 | 11 | 8 | 17 | 12 | 20 | 13 | |
工 兵 | 8 | 19 | 7 | 6 | 10 | 7 | |
輜重(しちょう)兵 | 1 | 1 | 2 | 3 | 5 | 3 | |
小 計 | 150 | 216 | 238 | 177 | 252 | 178 | |
補充兵 | 歩 兵 | 14 | 361 | 13 | 169 | 110 | |
騎 兵 | 4 | 4 | 5 | 6 | 9 | 3 | |
砲 兵 | 5 | 3 | 5 | 5 | 7 | 5 | |
工 兵 | 2 | 7 | 0 | 3 | 4 | 2 | |
輜重兵 | 1 | 1 | 0 | 2 | 4 | ||
小 計 | 26 | 376 | 23 | 185 | 134 | 10 |
(『県史通史編5』P130より引用)
1)明治7年は2月と7月の徴兵検査の合計、他は2月の徴兵検査結果である
2)明治6~9年は旧埼玉県分
3)数値は原資料のままとした