北本市史 通史編 近代
第1章 近代化の進行と北本
第4節 生活・文化の継承と刷新
2 徴兵制と西南戦争
西南戦争の勃発明治政府は近代化政策を推進するに当り、それを阻害する存在となった武士階級が持っていた特権(苗字帯刀(みょうじたいとう)・秩禄(ちつろく)など)を次々と廃止していった。その総仕上げが明治六年に行われた徴兵令による国民皆兵政策であった。国民皆兵と称しても、先に述べたように実質は農家の次、三男が兵役にとられ、これによって武士は旧支配階級の武力占有者という地位から完全に離脱した。
次いで同九年の金禄公債証書発行条例の発布は、国の通常歳出の四割近くを占める武士への秩禄を解消して国家財政を他の近代化政策に向けようとするものであった。当然のこととして、これは大多数の武士層の収入の道を鎖(とざ)すこととなった。さらに同年三月には廃刀令が出されて、武士階級の没落を象徴することとなった。これら一連の政府の施策に対して武士層が不満でないはずはなかった。すでに維新直後から政府高官に対する暗殺事件が頻発(ひんぱつ)して、大村益次郎・岩倉具視・横井小楠らが殺傷されたが、明治七年になると佐賀の不平士族たちは征韓派前参議江藤新平を擁(よう)して挙兵した(佐賀の乱)。次いで同九年には熊本の保守的士族たちによる敬神党(神風連)の乱、これに応じた福岡県の旧秋月藩士らによる秋月の乱が続いた。これら不平士族の反乱に対して政府は直ちに軍隊を派遣してきびしく弾圧した。これら一連のいわゆる不平士族の反乱は、ついに統一的指導部を形成できぬまま散発的蜂起(ほうき)に終わった。これは彼らの主張が廃刀令や秩禄(ちつろく)処分へのいわゆる士族の自分たちの特権擁護(ようご)のための蜂起であり、当時の大多数の国民との結びつきを欠いていたことに理由の一つがあった。西南戦争も、その意味で不平士族の反乱と同様の意味をもっており、人々の共感と支援はえられなかった。
明治六年の征韓論争で下野した西郷隆盛をむかえた鹿児島は、中央政府の推進する近代化政策を拒絶する士族の独裁国家の観を呈していた。県令以下の県の役人には一切他県人を容れず、政府の方針を実行しなかった。政府の四民平等政策にも従わず、士族平民の他に付士・足軽・付属長・付属などの旧武士階級の呼祢を残し、同五年の卒廃止の布告ののちも士族・付士・卒の三階級に改め、規則にない付士という階級を残していた。地租改正についても、士族の知行地は士族の私有地だとして農民の所有権を否定してこれを実行させなかった。それ故鹿児島からの地租は全く上納されなかった。秩禄(ちつろく)処分についても同様で金禄によらず依然として現米の支給をつづけていた。その他文明開化の一環としての太陽暦の採用も鹿児島だけは実行されなかった。木戸孝允はこの状態を「然(しこう)して(ママ)鹿児島県は、一種独立国の如き有様あり。実に王政のために慣慨(ふんがい)にたえず」(『木戸孝允日記』明治十年四月十八日)と記していた。
中央政府に対する鹿児島県の抵抗は西郷隆盛を中心とする私学校の人々によって支えられていた。私学校は明治六年(一八七三)の征韓論で下野した西郷派軍人を中心に翌七年に銃隊学校と砲隊学校を中核として設立され、他に陸軍幼年学校在学者を収容した幼年学校があった。私学校の経費は県から支給され、県庁の役人をはじめ、区長、戸長などにはほとんど私学校関係者が任命され、さながら鹿児島県は西郷隆盛の私学党の支配下におかれていたといっても過言ではなかった。
中央集権体制による近代的統一国家の形成をいそぐ政府にとって、この鹿児島県の存在は、まさに目の上のこぶであった。
明治十年一月、鹿児島にあった陸軍火薬庫の移送をきっかけとして、私学党は蜂起(ほうき)した。同年二月十五日西郷隆盛は私学校の生徒一万五〇〇〇人余を率(ひき)いて上京を企て、ここに西南戦争が勃発(ぼっぱつ)した。
写真32 西南戦役の表忠碑
本町
戦 死 者 | |
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北 足 立 郡 | 15 ( 7)人 |
入 間 郡 | 36 ( 7) |
比 企 郡 | 10 |
秩 父 郡 | 11(3) |
児 玉 郡 | 3(1) |
大 里 郡 | 19 ( 8) |
北 埼 玉 郡 | 37 (16) |
南 埼 玉 郡 | 21(8) |
北 葛 飾 郡 | 23 (12) |
合 計 | 211(62) |
(『県史通史編5』P132より引用)
( )内は戦死者中傷病死者数