北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第4節 生活・文化の継承と刷新

3 伝統文化の継承

村のたすけあい

写真33 荒川の水難除けと五穀豊穣を祈る水神様

高尾

村で生活を営むためには住民相互の協力体制を欠くことができなかった。季節ごとの農作業はもちろんのこと、冠婚葬祭、家の普請(ふしん)や屋根の葺(ふ)き替えなどについて家々は協力するため、その方法としてのしきたりを持っていた。ここでは明治期の講を中心にそのあり方を見てゆきたい。講は本来仏教上の用語から発しており、一般には宗教・経済・社交上の目的を達成するために組まれた結社集団をいう。すなわち当初は仏典講究の学問僧による研究集会又は仏教儀礼を執行する仏事法会(ほうえ)を指し、奈良時代に最も盛んとなった。その後、仏教が神仏習合(しゅうごう)し、また、在来の民間信仰と接触することによって様々な自然崇拝に基づく地域信仰集団をつくり出していった。すなわち、山神講、水神講、日待講、月待講、竜神講などである。我が国古来の神社祭祀(さいし)では、その祭神を族縁的な民族集団の宗教的象徴とみなす考え方が中心的であった。つまり、神社を中核に祭祀集団が構成され、宗教的機能を発揮してきたわけである。それらの祭祀組織が仏教式の講名を持つに至った理由は、まさに神仏習合(しゅうごう)の結果である。十世紀以降の荘園内の神社や畿内(きない)の宮座組織の中に仏教的色彩が濃くなるのもこのためである。氏神講、鎮守(ちんじゅ)講、権現(ごんげん)講、春日講、住吉講、八幡講、熊野講、伊勢講、三山講、三社講などと称する神祇(じんぎ)講が頻出(ひんしゅつ)してくる。
さて、中世以降、人間の生産活動も様々に分化してくると、宗教上・信仰上の動機だけではなく、経済上社会上の理由から講的結社がつくられるようになる。高校の教科書にも取り上げられている頼母子(たのもし)講、無尽(むじん)講は中世寺院内の尼僧間で金銭物品を相互融通(ゆうずう)するためのものとしてつくられたという。また座商人とか職人たちの同業者仲間の親睦講もあらわれた。大工・左官の太子講、木地師の親王講、たたら師、鍛冶職のふいご講・荒神(こうじん)講など枚挙(まいきょ)にいとまがないほどである。近世に入り生産力の向上によって親睦的、娯楽的な傾向はさらに助長されていった。すなわち、農民の田神講、山仕事のものの山神講、操業の安全と豊漁を期待する漁民の海神講・竜宮講・恵美須講などがそれである。さらに都市の商工業者による株仲間が結成する講も様々な機能を発揮した。

写真34 鴻盛講緒言

(福島健次家 6)

近世においては陸海の交通も整備発達し、各地への旅行も比較的容易になり、人々が他郷へおもむく機会も多くなった。これらの背景には、十八世紀に入ってからの農業生産の増大はむろんのこと、漁業の発展、織物業を中心とする手工業の発達、商業、金融など貨幣経済の進展など社会生活総体の発展があった。こうしたことの上に、聖地巡礼や寺社参詣が盛んとなり、そのために参詣講の結社組織がつくられた。頼母子(たのもし)講式に旅費を積み立て講の代表を順番に送り出す代参形式が多く、目的の社寺名をかかげて善光寺講・大山講・伊勢講・三山講(出羽・熊野)・出雲講・白山講・氷川講・三峯講などがあった。また富士山や浅間山・戸隠山・木曾御嶽・大峯山・英彦山(えひこさん)などの霊山へ登拝修行のため、山伏や行者など先達の指導で結成される山岳講も少なくなかった。
以上簡単に講の歴史をのべた。明治においてもこれらの講の伝統はひきつがれ、戦前までは燃家のほとんどが講に入っていた。ここでは村のたすけあいという視点から経済的なものとして頼母子講(又は無尽(むじん)講)についてみてゆく。頼母子(たのもし)講も中世以来、社寺の檀家(だんか)和親の精神を基調として、成員相互の救済融通機関として発達してきたが、近世に入ると純然たる金融機関として、農村においても村民相互の共済のため広く行われるようになった。火災にあった家屋の建築資金を調達するための普請講、新しく農具・諸道具や牛馬を購入するための一時的融資のための道具講・牛馬講などはこれにあたる。
明治十四年(一八八一)、市内の荒井でつくられた鴻盛講(こうもりこう)は前述の頼母子講の類である。この講は「緒言」(近代№二五七)でその目的を次のように述べている。すなわち、人々が大きな利益を求めたり美しいものを観たいと欲するのはあたりまえのことである。しかし、それは自分一人や一家族だけでは不可能なことがある。だから近郷の有志の人々を慕って講をつくり、人々の便宜と金融をはかり、資本を拡大して家産を増殖し、富強にしたいとしている。
次に講則として、籤(くじ)数は三〇〇〇本とし、一口金二〇銭がけ、二〇口をもって臺株と定む、としている。集金額は六〇〇円で、内二〇〇円が本箴当金、内三七円が周旋人手数料、内一五円が一五〇株賄料、内五円が証書見届出頭費、内八円が会場諸費、残三三五円を糶(せり)金高としている。会は旧暦で毎月十六日の午前一〇時にひらかれ午後二時に投票開札ときめられていた。どんなに凶歳でも休会せず、七年をもって満会としたいが、糶の多寡(たか)で伸縮することがあるとしている。以上みてきたように純然たる庶民金融であった。
また、明治二十九年(一八九六)七月に石戸宿で結ばれた共楽講も頼母子講の一種である。この規約は先の鴻盛講とはちがって目的は明確に会員相互の和親と利益であると述べている。本講は一口が五〇銭で二四口をもって満口とし、手取金は抽籤(ちゅうせん)と糶の二本立とし、毎年陰暦で三月と六月と七月、八月の四回としている。また期限は明治二十九年に始まり、同三十五年六月まで二四回をもって満会とするとしている。

写真35 共楽講規約表紙

(横田善一朗家 24)

写真36 共楽講からの借金証

(横田善一朗家 24)

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