北本市史 通史編 近代
第1章 近代化の進行と北本
第4節 生活・文化の継承と刷新
3 伝統文化の継承
村のたすけあい写真33 荒川の水難除けと五穀豊穣を祈る水神様
高尾
さて、中世以降、人間の生産活動も様々に分化してくると、宗教上・信仰上の動機だけではなく、経済上社会上の理由から講的結社がつくられるようになる。高校の教科書にも取り上げられている頼母子(たのもし)講、無尽(むじん)講は中世寺院内の尼僧間で金銭物品を相互融通(ゆうずう)するためのものとしてつくられたという。また座商人とか職人たちの同業者仲間の親睦講もあらわれた。大工・左官の太子講、木地師の親王講、たたら師、鍛冶職のふいご講・荒神(こうじん)講など枚挙(まいきょ)にいとまがないほどである。近世に入り生産力の向上によって親睦的、娯楽的な傾向はさらに助長されていった。すなわち、農民の田神講、山仕事のものの山神講、操業の安全と豊漁を期待する漁民の海神講・竜宮講・恵美須講などがそれである。さらに都市の商工業者による株仲間が結成する講も様々な機能を発揮した。
写真34 鴻盛講緒言
(福島健次家 6)
以上簡単に講の歴史をのべた。明治においてもこれらの講の伝統はひきつがれ、戦前までは燃家のほとんどが講に入っていた。ここでは村のたすけあいという視点から経済的なものとして頼母子講(又は無尽(むじん)講)についてみてゆく。頼母子(たのもし)講も中世以来、社寺の檀家(だんか)和親の精神を基調として、成員相互の救済融通機関として発達してきたが、近世に入ると純然たる金融機関として、農村においても村民相互の共済のため広く行われるようになった。火災にあった家屋の建築資金を調達するための普請講、新しく農具・諸道具や牛馬を購入するための一時的融資のための道具講・牛馬講などはこれにあたる。
明治十四年(一八八一)、市内の荒井でつくられた鴻盛講(こうもりこう)は前述の頼母子講の類である。この講は「緒言」(近代№二五七)でその目的を次のように述べている。すなわち、人々が大きな利益を求めたり美しいものを観たいと欲するのはあたりまえのことである。しかし、それは自分一人や一家族だけでは不可能なことがある。だから近郷の有志の人々を慕って講をつくり、人々の便宜と金融をはかり、資本を拡大して家産を増殖し、富強にしたいとしている。
次に講則として、籤(くじ)数は三〇〇〇本とし、一口金二〇銭がけ、二〇口をもって臺株と定む、としている。集金額は六〇〇円で、内二〇〇円が本箴当金、内三七円が周旋人手数料、内一五円が一五〇株賄料、内五円が証書見届出頭費、内八円が会場諸費、残三三五円を糶(せり)金高としている。会は旧暦で毎月十六日の午前一〇時にひらかれ午後二時に投票開札ときめられていた。どんなに凶歳でも休会せず、七年をもって満会としたいが、糶の多寡(たか)で伸縮することがあるとしている。以上みてきたように純然たる庶民金融であった。
また、明治二十九年(一八九六)七月に石戸宿で結ばれた共楽講も頼母子講の一種である。この規約は先の鴻盛講とはちがって目的は明確に会員相互の和親と利益であると述べている。本講は一口が五〇銭で二四口をもって満口とし、手取金は抽籤(ちゅうせん)と糶の二本立とし、毎年陰暦で三月と六月と七月、八月の四回としている。また期限は明治二十九年に始まり、同三十五年六月まで二四回をもって満会とするとしている。
写真35 共楽講規約表紙
(横田善一朗家 24)
写真36 共楽講からの借金証
(横田善一朗家 24)