北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第4節 生活・文化の継承と刷新

2 徴兵制と西南戦争

村から戦争に参力した人々
埼玉県から西南戦争に従軍した人々は、明治七、八年に徴兵(ちょうへい)された人々である。政府軍は兵員不足のため、西南戦争では警視庁巡査や各県から徴募(ちょうぼ)した巡査を戦闘部隊に編成した。埼玉県における動員数は明らかではない。戦死者は傷病死者六二名を含め二一一名に達している。石戸村の表忠碑によれば、戦死陸軍歩兵一等卒新井作助の名が記されている。埼玉県人が多く戦死したのは、東京鎮台第一連隊に所属した人々で、三月十七日前後の田原坂(たばるざか)(熊本県植木町)の戦いにおいてであった。この前後の二俣村(熊本県玉東町)、植木口(熊本県植木町)での戦死者も多い。病気は衛生の悪さから来るコレラ、チフスであった。その他警視隊も参加しており、埼玉県では一一名の戦病死者を出している。石戸村では、先の戦死者一名の他八名がこの戦争に参加した。くだって同村では、大正四年(一九一五)四月、石戸村将兵義会により、同村出身者の戦病死表忠碑を建立し、同月二十七日に除幕式を実施している(近代№二三九)。
西南戦争は、明治国家にとって最初の政治的軍事的一大事であり、成立早々の徴兵(ちょうへい)制にとってもその存否をかけた試金石であった。そして勝利によって武力を中央へ完全に統一することによって中央集権体制への最後の大きな足がかりを確立した。

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