北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第4節 生活・文化の継承と刷新

3 伝統文化の継承

村の生活と宗教
江戸時代、幕藩体制のもとで仏教と神道は幕府と諸藩の厳しい統制とひきかえに国教として保護され安定した地位を保障された。反面、その位置に安住し「葬式仏教」と批判される面も現出した。民衆の間では、開運、商売繁昌、家内安全、病気平癒(へいゆ)、厄除けなどの現世利益(げんぜりやく)信仰が流行し、現世利益神をまつる神社仏閣が賑わった。人々の中では、山伏、巫女(ふじょ)をはじめ、聖、願人坊主、陰陽師(おんみょうじ)、祈祷師(きとうし)、易者などの様々な宗教者が民衆の生活に密着して現世利益の求めにこたえて呪術(じゅじゅつ)=シャーマニズムの腕をきそった。巫女は梓弓を鳴らしたり鈴を振って神がかりし、神のことばや生霊(いきりょう)、死霊(しりょう)の言葉を媒介した。キツネや飯縄(いずな)(イタチの一種)など神秘的な力を持つとされる霊獣を使う呪術者(じゅじゅつしゃ)や、宗教的な芸能をもち歩く遊芸者もさかんに活動した。特に流行した現世利益神には、稲荷、観音、地蔵、金毘羅(こんぴら)、不動をはじめ、恵比寿、大黒天、弁天などの福神がいた。これらの神は平安時代以降の神仏習合の中で信仰されてきたものも多く、またインドから入って来た神々も密教の中で取り入れられ現世利益神として信仰されていった。
明治時代になると、新政府は古代の神祇(じんぎ)官を復活させ神仏判然を命令した。このため神仏分離とそれにつづいて排仏毀釈(はいぶつきしゃく)の動きが全国的に起こってきた。これには天皇を中心とする新しい神道で国民を教化統合しようとする政治的ねらいがあり、そのため神社と寺院を分離し神社から仏教的要素を一掃して、神社の主体制を確立しようとした。明治三年(一八七〇)に大教宣布の詔(みことのり)が出され、天皇中心の国体観念に立つ神道が、「大教」の名で組織的に全国民に布教されていった。翌明治四年、全国で一七万をこえる神社はすべて国家の宗祀(本家として祭る)とされ、それぞれ社格を与えられて伊勢神宮を本宗(総本山)として、その下にピラミッド型に再編成された。
すでに慶応四年(一八六八)神祇事務局の達(たっし)によって権現(ごんげん)や牛頭(ごず)天王などの仏語をもって社名神名とすることが禁止されたが、権現や牛頭天王は日本民族の在来信仰である諸神格と仏教信仰の対象が結びついた本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に基づいて生まれたもので、天照大神(あまてらすおおみかみ)や八幡大神などは、それぞれ本地である大日如来・観世音菩薩の垂迹であるという日本独特の信仰が仏教伝来以降流布(るふ)されてきた。そして本地の化身が権現という仮の姿で現れ、これを神として祀(まつ)ったものであるとされた。神仏分離はこうした本地垂迹説を廃して、神を絶対化することであった。このような明治政府の天皇を中心とする中央集権国家体制形成のための国家神道政策によって、江戸時代民衆の間に広まっていた現世利益(げんぜりやく)信仰はどのような変貌(へんぼう)を余儀なくされたか。以下、『市史第六巻民俗編』を参照しながら市域の堂庵について見てゆきたい。『市史民俗』にも述べられているが、ここで対象とするのは明治四年(一八七一)に太政官(だじょうかん)によって格付けされた神社以外の、地域の人々によって直接維持管理されているもので、お堂の境内(けいだい)に墓を持つ家(檀家(だんか))によって維持管理されているものとする。
村落の生活は神社や寺といった宗教施設を中心に営まれているが、こうした神社や寺に属せず、代わりに二間四方くらいの小規模な堂・庵(俗にいうお堂)を中心に宗教活動を行っている所も少なくない。本尊としての薬師や観音などの仏像・石碑のそばに堂・庵がいとなまれ、ときには境内に墓が付属している場合もある。

写真43 目の神様といわれる横田薬師堂

石戸宿

薬師堂は薬師如来に対する信仰を中心とするものである。薬師如来はインド仏教の上では東方浄瑠璃(じょうるり)世界の教主で衆生(しゅじょう)の病気を治すといわれ、病気治しの現世利益信仰として庶民の間に浸透した。中世以降、全国各地に薬師堂がつくられ、特に眼病の願かけに霊験(れいげん)あらたかだという民間信仰が広く流布している。『武蔵国郡村誌巻之十六・十七』では、上深井・石戸戸宿(二宇)、下石上・高尾に薬師堂があったと伝え、今日現存するものもある。深井では盆前の七日に堂庵に墓を持つ家が集まり、墓地の除草・清掃を行うが、特に行事などはやっていない。石戸宿横田の薬師堂は、集会所を兼ねていることから「シュウカイジョ」とも呼ばれ、横田イッケ(真言宗・常勝寺檀家)と新井イッケ(天台宗・泉福寺檀家)とで造ったものといわれる。昭和三十七年十一月に建てられた「薬師堂改修記念碑」には、「薬師堂は江戸時代中期宝暦二年(一七五二)九月御本尊薬師如来の安置に際し、武州川越の在、宮大工星野八右エ門重春の作とあり」と記している。お堂の祭りは、四月八日がお釈迦(しゃか)様。七月八日はキトウといわれる祭りの日で、家内安全、五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する。十月八日は「トウロウ」とよばれる薬師様の祭りで、明治中ごろまでは、花火をあげたり舞台を作って余興をしたという。薬師様は目の神様といわれ、他村からも参詣に来る人がいた。
地蔵堂は地蔵菩薩(ぼさつ)への信仰を中心としている。地蔵は元来古代インドに起源する神で、そのサンスクリット名のクシティガルプハ、クサーハラナは、いずれも地中に伏蔵するという意味を持っている。我が国では古代末期、末法思想が広まるにつれて貴族社会の中で盛んとなり、鎌倉時代以来阿弥陀浄土信仰とともに次第に庶民の間に広まり、地神(じがみ)とも結んで土地に深く根をおろした。地蔵にこめられた人々の願いは様々で、その童形(どうぎょう)と結びついた伝説も多く、子育地蔵・延命地蔵・艷書地蔵・腹帯地蔵・とげ拔き地蔵など各種の地蔵信仰が普及し、近世には地蔵講も一般化した。市域では、上宮内、古市場、別所、北中丸、下石戸上、下石戸下、高尾にある。『風土記稿』(巻之百四十九 足立郡之十五 鴻巣領上中丸村)には北中丸の地蔵堂の一つについて「蝦(えび)堂と唱ふ、相伝ふ往古(おうこ)村内の蓮沼にして、村民蝦を漁(すなど)れり、其網にかかりて上りしかば、草堂を営み安ぜし像なりと、この側に老松ありて蝦堂松と唱ふという」とある。このお堂に墓を持っているのは西が中心で、他に東や南の家もある。その家を七つに分け一人ずつ総代が出ている。二年交代で、主な仕事は掃除、草取りである。草取りは年二回、夏(盆前)と秋にする。

写真44 観音像

宮内 観音堂

写真45 大師像

宮内 観音堂

観音堂は、観世音菩薩に対する信仰を中心とする。衆生(しょじょう)の苦厄を救い人間を救済する仲介神としての観音信仰は広くアジアに認められた。元来北西インドで成立し、日本に入ってからは観音は救いを求める者に応えて様相を変えて衆生を救う菩薩とされる所から、数多くの変化した様式で造顕(ぞうけん)された。天台宗では、十一面観音、千手(せんじゅ)観音、不空絹索(けんじゃく)観音、馬頭観音、如意輪観音と聖観音を六観音とし、地獄、餓鬼(がき)、畜生、修羅(しゅら)、人間、天上の六道を支配し、ここで苦悩する人間を救う六道拔苦(ばっく)の菩薩とされた。
これらの多種多様な観音は、おのおの独自の姿態をそなえ、観音の慈悲が宏大無辺であることを示していた。江戸時代には、観音は有力な現世利益神としてさかんな信仰をあつめた。特に馬頭観音(馬頭明王)は馬の守護神として広く信仰された。市域では下宮内、本宿、高尾にある。宮内の観音堂には如意輪観音像と大師像がお祀(まつ)りされている。三月三十日には観音堂に祀ってある大師様の豆イり真言がある。これは大師様の厨子(ずし)が上グルワ・ジンガの三一軒すべてを順番に廻るもので、迎えた家では厨子を床の間に飾り、一緒について歩いてきた子どもやお婆さんに、大豆とあられの煎(い)ったものをあげ、お重を出してふるまう。
阿弥陀信仰は、「無量寿経」にみえる阿弥陀仏のおさめる西方極楽(ごくらく)浄土に往生(おうじょう)しようとする信仰である。阿弥陀仏も北西インドを起源としており、はかりしれない光明をもつ者、はかりしれない寿命(じゅみょう)を持つ者を意味する。そのため意訳して無拈光仏、無靖寿仏ともいう。阿弥陀仏は、遠い昔法蔵菩薩として修行(しゅぎょう)していた時、生きとし生ける者の救済を願って四八の誓願(本願)を立て、その第十八願で「もし私が仏になった時に十方世界の衆生(しゅじょう)が信仰してわが極楽世界に往生(おうじょう)しようと欲する心を起こし、その心を起こすことがたとえ一念ないし十念であっても、そこに往生できないようであれば、その間私はあえて仏にならない」と誓ったという。この念仏往生の第十八願は、本願中の本願という意味で、王本願ともよばれ、浄土信仰の要(かなめ)とされる。

写真46 阿弥陀堂

高尾

写真47 無量寿院の大堂

朝日(野呂素道家提供)

市域では阿弥陀堂は、下宮内、花ノ木、別所、石戸宿、下石戸上、下石戸下、高尾にある。宮内では新田にあり、世話人は五人、そこに墓を持っている者の中から選ばれる。三月十日と四月十日の年二回、堂内に祀っている大師様の祭りとして豆イリ真言をやっている。ここでは大師様を家々に回すことはせず堂に置いたままである。常光別所の阿弥陀堂について『風土記稿巻之百四十九足立郡之十五』には「これ右大将頼朝建立の堂にて大堂と称す(中略)本尊阿弥陀行基の作なるよし、往古(おうこ)は無量寿院の本堂なりしが、いつの頃にや脇立の不動・毘沙門の両像を遷(うつ)し、おのずから本堂は別に成しものならんと云」とある。大堂は左甚五郎が一夜にして建てたという言い伝えがあり、地蔵堂は高野聖(ひじり)が来て建てたといわれている。昔は大堂の周(まわ)りに六つの坊があり、そこに住む僧たちが昼は大堂に来てお勤めをし、夜は自分の坊に戻っていったといわれ、無量寿院がその別当職を勤めていたという。大堂の本尊は阿弥陀如来であるが、阿弥陀様の祭りはなく、もう一つの安置仏である不動様の祭りが八月十六日にあり、これを「お堂の祭り」という。
この他のお堂として、下宮内、山中にある不動堂がある。不動もインドの神で、密教に取り入れられて大日仏の使者、または化身(けしん)とされた。日本に入って真言宗や修験(しゅげん)道で重んじられ、不動が独立して信仰の対象になった。不動は、怒りの相をそなえた青年の姿をしており、手に剣と索を持っている。不動の霊場の中でも特に下総国の真言宗新勝寺は成田山の不動として近世の町民の間でひろく信仰された。江戸では出開帳(でかいちょう)人気を呼び、成田詣(もうで)がさかんとなった。
「神仏分離」で述べたように民衆の現世利益の要求と結びついて隆盛を誇った諸神社(白山社、山王社、愛宕(あたご)社、三峯社など)も、神道国教化による神社統制の中で次第に廃されていった。民衆の間で信仰されていた以上のような諸信仰も、明治末期の神社合祀(ごうし)の中で廃止、統合が行われていった。明治天皇制国家は、それ以前の仏教、陰陽(おんみょう)道、儒教と習合して発展してきた神社神道の歩みを断ち切って国家の祭祀に限定された新しい国家神道をつくり、それを神(教派神道)、仏(仏教)、キリスト教の三教の上において、天皇崇拝と神社崇敬を国民の義務とした。
表26 北本市堂庵変還表
 新 編 武 蔵 風 土 記 稿武 蔵 国 郡 村 誌堂 庵 明 帳 細
東 間地 蔵 堂
上深井
下深井
観音堂
薬師堂
薬 師 堂
上宮内
下宮内
地蔵堂
観音堂
不動堂
弥陀堂
十王堂
地蔵堂(常福寺境内)
観音堂(〃)
不勤堂
阿弥陀堂
本 宿観 音 堂観 音 堂
山 中不 動 堂不 動 堂
古 市 場観音堂)如意寺境内)
太子堂
地蔵堂
太子堂
地蔵堂(上手)
太子堂(谷足)
上 中 丸地蔵堂
薬師堂
太子堂
観音堂
地蔵堂(蝦堂)
下 中 丸
花 野 木阿弥陀堂
別 所阿弥陀堂(大堂)
地蔵堂
大 堂
地蔵堂
大 堂(中上手)
地蔵堂(原)
石 戸 宿念仏堂
薬師堂
阿弥陀堂
薬師堂
薬師堂
東光寺(元阿弥陀堂)
阿弥陀堂(放光寺境内)
薬師堂(横田)
下石戸上薬師堂
釈迦堂
阿弥陀堂
地蔵堂
薬師堂)真福寺境内)
阿弥陀堂
弥陀堂
地蔵堂
下石戸下地蔵堂
阿弥陀堂
地蔵堂
阿弥陀堂(旧大蔵寺境内)
高 尾阿弥陀堂
観音堂
護摩堂
阿弥陀堂
観音堂
地蔵堂
薬師堂
阿弥陀堂)大宮)
荒 井観音堂
地蔵堂
薬師堂
<観音堂二宇(一は花見同)
地蔵堂
千手堂


花見堂
千手堂(中岡)
北 袋
(荒井村枝郷)
観 音 堂
薬 師 堂

(『市史民俗』P五六六より引用)


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