北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第4節 生活・文化の継承と刷新

3 伝統文化の継承

剣道

写真48 五味信良翁の碑

(五味一雄家)

埼玉県は関東武士の血をうけて尚武(しょうぶ)の精神に富み古くから武道の盛んな土地柄であった。江戸時代には武士は「士・農・エ・商」の身分制度の最上位に位置してその権威を誇り、支配者として苗字(みょうじ)・帯刀をゆるされ、庶民に相当の無礼があれ.は切り殺してもとがめを受けなかった。それ故、文武にわたって厳しい修養が必須(ひっす)とされ、剣道をはじめとして槍術・弓術・柔術等、武術全体にわたって幼少の頃より稽古(けいこ)に励んだ。しかし、鎖国(さこく)によって支配体制が長く維持されると、武官である番方よりも官僚としての役方の方が次第に重要性を増すようになった。江戸時代も末期になると商品経済が発展し、武士の家計は消費的傾向が増大した。しかし、家禄は概(おおむ)ね固定的であったため、次第に窮乏の度を加えてきた。幕府や藩はその苦況を乗り切る方策として家臣の知行(ちぎょう)を減じた。半知といって知行高の半分を減じることもあったから、武士の生活は一段と深刻になった。(『世事見聞録(せじけんもんろく)』文化十三年武陽隠士著)は次のように述べている。
「なべて武家は大家も小家も困窮し、別(べっし)て小禄なるは身体甚見苦しく、或は父祖より持伝へたる武具、及或は先祖の懸命(けんめい)の地に入りし時の武器、其外家に取りて大切の品をも心もなく売払い、(中略)殊に小給の侍、徒士(かち)、足軽以下の者は、奉公の間の内職にて傘を張り、提灯(ちょうちん)を張り、下駄足駄の花紐を始め、種々の細工を致し、妻子も共に稼ぎ、町人の蔭にて余情を請け渡世のたしに致す。」
(大意一般に武士は大家・小家を問わず困窮しており、特に禄高の低い者は生活がはなはだ見苦しく、ある時は父祖伝来の武具またある時は祖先が命がけで戦った武器、その他家にとって大切の品を遠慮なく売り払い、(中略)ことに俸禄の少ない武士、徒士(かち)、足軽それ以下の者は、主人に奉公する合間の内職として、傘をはったり、提灯(ちょうちん)をはったり、下駄足駄の鼻緒をはじめ、いろいろの細工仕事を行って妻や子供も一緒にかせぎ、町人のおかげで情をうけ生活のたしにしている。)
このような生活状態から幕末期には武士の権威は失墜(しっつい)していった。しかしその反面、外圧により政情が不安定になり、百姓一揆や打ちこわしが頻発(ひんぱつ)化すると、それに対する自衛の必要上から、また、埼玉では江戸に近接して武家の生活様式を見倣(なら)う機会が多かったことなどにより、従来武士の専有物であった武道が有力農民だけでなく、ひろく一般庶民の間にも急速に広がっていった。
市域では、深井の寿命(じゅみょう)院の墓石に記されている銘文によれば、嘉永五年(一八五二)十月二十日生まれで明治四年(一八七一)五月十二日に死去した深井勘助という人物についての記述がある。それによると、勘助は一三歳で江戸に出て人見友雪という師について漢籍を学び、その後郷里にかえり、父から柔術を受け、剣道を戸賀崎熊太郎について神道無念派を学んだが、惜しくも二〇歳で亡くなった。この深井勘助が師事した神道無念流戸賀崎熊太郎は四代目戸賀崎熊太郎芳武である。神道無念流は元禄十五年(一七〇二)に下野国都賀郡藤葉村(現栃木県下都賀郡壬生町)で生れた福井兵右衛門嘉平を創始者とする。当時県内では川越藩の鐘捲(かねまき)流、忍藩の浅山一伝流、岩槻の直心影(じきしんかげ)流、岡部藩の無限流などが隆盛であった。
一方、江戸時代中期以降土地の集積によって次第に富裕化して来た地方の豪農層の中には、貧農による百姓一揆や打ちこわしからの自衛手段として剣術を練習する気運が高まり、一般の農商人を対象とする新興流派の誕生が期待されるようになっていた。神道無念流もこのような時代背景の中に生まれた。戸賀崎熊太郎暉芳は延享元年(一七四四)上清久村(現久喜市)に生れた。知道軒と号し、一六歳で福井兵右衛門嘉平の道場に入門、二一歳で免許皆伝を許され、同流を継ぎ宗家となった。その後郷里の上清久村にかえり邸内に道場を開き近隣の子弟の指導にあたった。
深井勘助はこの四代目戸賀崎熊太郎芳武(一八三九~一九〇七)に師事した。深井勘助景知の曽祖父景周は三河国の人であったが、鴻巣宿の深井家を嗣(つ)いで江戸で加藤長寧から起倒(きとう)流の柔術を学び、また陣鎌、神道無念流の剣を修めたといわれる。勘助の師、四代目戸賀崎熊太郎芳武は尚道軒と号し、幼い時より江戸道場で技を磨いた。父芳栄の後を継ぎ水戸藩に抱えられ、五〇人扶持を賜り上士に列せられた。明治十一年(一八七八)、清久村に帰り子弟の指導にあたったが、同十四年剣道の退廃をなげいて割腹した。清久村の道場からは多くの才人が輩出し、県の東部地区で道場を開いたり、剣術指南となった。
柳剛流を極めた五味良信翁は石戸村の出身で嘉永元年(一八四八)に生まれている。二〇歳で名主役となり、後に戸長に選任されて地元のためにつくした(近代№三一五)。初め柳剛流の奥義(おうぎ)をきわめ、後に高野佐三郎について小野派一刀流を学び、明信分館長に推され警察の属托教授として後輩の指導にあたった。また翁は算術に通じ、その教授に当たっては、懇切丁寧(こんせつていねい)でまさに文・武・徳を兼ね備えた偉材であった。明治四十四年(一九一一)六四歳で没した。大正三年(一九一四)十一月二十三日には五味翁の建碑除幕式が行われ、門下生による試合が催された。
明治新政府の時代になると、それまでの支配階層であった武士は急速に存立基盤を剥奪(はくだつ)されていった。すなわち明治六年に徴兵(ちょうへい)令が出され、国民皆兵制のもと武士はその任務と特権を否定された。次いで同九年、廃刀令が出されて帯刀の威が奪われ、同年八月には秩禄(ちつろく)処分が断行され、士族に対する家禄は全廃され、武士は国家からの経済的保障を失った。こうした新政府の政策に対し、武力反抗を試みる士族もみられたが、下級士族は官吏や教員についた一部を除いて大部分は没落せざるをえなかった。そのため政府は、生業資金の貸し付けや開墾(かいこん)・帰農などの「士族授産」を奨励した。
埼玉県でも明治五年の学制頒布によって成立した小学校の教員に、旧士族たちが任命され、剣術の指導にもあたった。翌六年から小学校教員の養成が始まったが、その教科目に武術は入っていなかった。同十年頃に前橋藩士の横山多喜次が、現在の浦和市岸町に剣術の道場を開いた。師範学校では剣術を習う生徒に限って夜間の外出を許す特例を設けて、稽古の便宜(べんぎ)をはかった。同二十八年、高野佐三郎がこの道場を継承して「明信館」と命名した。五味信良が師事したのが、この高野佐三郎である。
高野佐三郎は文久二年(一八六二)秩父郡大宮郷(現秩父市)に生れた。祖父は小野派一刀流の免許を持ち師範であった。彼は江戸に出て山岡鉄舟に学び、明治十七年秩父に帰った。その後警視庁の巡査に剣道を指南したりしていたが、同二十一年埼玉県警察本部傭員(よういん)となるとともに明信館で門弟の指導にあたり、各方面に明信館の支館を設立し、埼玉県の剣道普及に大きな役割を果たした。同二十八年四月に大日本武徳会が創設され、創立時から関わっていた高野佐三郎は同十月武徳会総裁から「地方委員」を任命され、埼玉県のみでなく中央においても指導的地位にあった。同四十四年には県武道のメッカ武徳殿が完成し、県剣道界の躍進はいちじるしいものがあった。
五味翁が初め修めた柳剛流は、明和二年(一七六五)に葛飾郡惣新田村(現幸手市)で生れた岡田惣右衛門奇良によって創始された。奇良は幼い時から文学を志していたが、剣道をも好み、江戸に出て修行し、諸国の名だたる剣客たちの門をたたいて稽古(けいこ)を積み、厳しい修行の結果、「臑(すね)を斬る」という実戦的剣法を創りあげた。万延元年(一八六〇)に刊行された『武術英名録』によれば、同流の剣客たちは関東諸国では武蔵の剣士が圧倒的に多く記載されている。埼玉県では流祖の出身地である幸手市が二七人、草加市が一一人、三位は岩槻市の七人、四位は吉川町の六人、五位は庄和町の五人となっている。市域においても盛んで、大正三年(一九一四)~同十年の柳剛流剣術起請(きしょう)文前書には市内中丸村から四名が名前を連ねている(近代N№三一七)。

写真49 柳剛流剣術起請文前書

(橋本基圀家蔵)

明治四十四年(一九一一)、浦和に武徳殿が竣工し、埼玉武道のメッカになって以降の県内の主な動きは次のようである。大正二年(一九一三)には、高野佐三郎が大日本武徳会より剣道範士の称号を授与された。この年師範学校及び中学校において武道(柔道、剣道)が体操科のなかで独立した必修科目として実施されることになり、剣道隆盛の一因となった。『埼玉県体育史』によれば、「大正二、三年度は埼師運動部の黄金時代」とあり、剣道・柔道の有段者名簿に多くの学生の名が載っている。これらの人々が卒業後県内各地の学校に勤務しつつ青少年の錬成にあたりその振興に大きな役割を果たした。
さらに県内各郡下の町村教育会や警察署の肝煎(きもい)りで、小学生や青年団員らに巡回指導が行われ、各種の大会が催されてすぐれた剣士が輩出した。大正十四年の埼玉県下剣道有段者名簿には石戸村三段として、諏訪喜雄、吉田慎一郎の名前を載(の)せている(近代№三一九)。

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