北本市史 通史編 近代

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近代

第2章 地方体制の確立と地域社会

第1節 石戸村・中丸村の成立と村政の展開

1 町村制の施行と石戸村・中丸村の誕生

市制・町村制の村制の公布
明治十七年(一八八四)五月、政府は松方デフレ政策の進行に伴う地方財政悪化に対処して、連合戸長役場制度を発足させ、三たび地方制度を転換させた。維新直後の武蔵知県事・大宮県当時は旧体制そのままの組合村による統治方式であったが、その後の浦和県下では同三年四月の組合御用会所方式への転換に始まり、廃藩置県(はいはんちけん)後の中央集権化のために行われた翌四年四月の「戸籍法」による、旧来の行政区域を無視した大区小区制への転換を行った。そして、それが行き詰まると「郡区町村編制法」を同十一年七月公布して、旧来の町村を再び行政区域とし、さらに同十七年五月に同法を改正して連合戸長役場制度を発足させた。
このような、地方制度を抜本的に改革しようという動きは、明治十五年三月、伊藤博文(いとうひろぶみ)がヨーロッパに憲法調査に出向いている間に、山縣有朋(山県有朋)を中心として開始された。山縣は地方自治の伝統を重視して憲法発布以前に施行すべしと主張、自ら内務卿となるや省内に町村法調査委員会を設置し、草案の作成を進め、何度も修正を加えて「町村制」と名づけた草案を得た。しかし、その後山縣内務卿は、二人の内閣雇(やとい)の外国人ヘルマン・レスレル、アルベルト・モツセ(独人)に意見を聴取するとともに、同二十年一月、地方制度編纂委員会を設け、自ら委員長となりモッセ草案を中心に審議を進め、元老院等の修正を経て翌二十一年一月に町村制案、二月に市制案が可決された。そして、同年四月二十五日、法律第一号として交付された
公布された市制町村制は、まず市町村内に居住する者を住民と公民に二分し、公民は市町村政に参加する義務を持ち、同時に法律の規定に基づいて公務に参加する義務があった。彼らは、満二十五歳以上で公権を持ち一戸を構える男子で、かつ二年以上その市町村に居住する者とされ、地租、若しくは直接国税(船税、車税、会社税、官禄税など)年額二円以上の納付者であり、選挙権以外に、市町村の名誉職である市町村長・助役に選挙される被選挙権があった。
市町村会議員の選挙には、市では三級、町村では二級の等級選挙が採用された。三級選挙とは、直接市税総額を三等分して、最多額納税者の属するグループを一級選挙人として、以下三等分し、それぞれ二級選挙人、三級選挙人とした。各選挙人は議員定数の三分の一ずつを選挙する方法がとられ、町村も同様にして二区分された。ちなみに町村会議員の定数は、人口一五〇〇人未満は八人、一五〇〇~五〇〇〇人未満は十二人、五〇〇〇~一万人未満は十八人、一万~二万人未満は二十四人、二万人以上は三十人であった。
町村の執行機関は町村長とされ、助役とともに町村会で選ばれた。市長は有給吏員であったが、町村長、助役は原則として無給の名誉職であり、町村内の有力者の就任が勧奨(かんしょう)された。これは農村に名望(めいぼう)家(旧素封(そほう)家や地主層)を中心とした自治体を建設することが、国家の安定につながると考えられたからである。また、町村に一名置くと決められた収入役は、町村長の推薦によって町村会が選任する有給吏員であって、任期は四年であった。

写真50 中丸区長任期条例

(中丸村 6)

しかし、こうして成立した市制町村制は政府との関係において自治権が弱く、政府が圧倒的に優位に立っていた。例えば、市町村長に対して、内務大臣・府県知事・郡長(但し、市への監督権はなし)は、市町村吏員選挙の認可権、市町村会議決の許可権、強制予算の権、行政事務監査権、議会の議決停止権、吏員に対する懲戒処分(ちょうかいしょぶん)権などの監督権を持っており、市町村を厳重な統制・監督下に置いたのである。
さらに市制町村制は自治体所有の基本財産の創設とその維持を義務づけた。これは、主として財産の運営によって自治体の財政を維持し、税収は補助とする「不要公課町村」の理念によるものであるが、その一方で国家財源との競合防止と、市制町村制施行前に推進された町村合併後の新町村の経済的基盤をつくる意図から導入されたものであった。そのため市制町村制施行後は、旧町村所有財産の新町村統一財産化が地方行政の課題となった。行政面でも旧村の結束性は無視し得ないものとして残ったため、政府は財産区制度と区会または区総会の設置を認め、行政区と区長が置かれていった。上の写真は明治二十二年(一八八九)九月二十一日に内務省より許可された中丸村区長任期条例(近代No.三十七)で、設置の理由として村内が広域であることから、村長の指揮命令を円滑(えんかつ)にするために合併以前の九村に応じて、九区を置いたことが記されている。なお、区長には「旧来(きゅうらい)ノ伍長・組長等ノ例ヲ襲用(しゅうよう)シタルモノナレバ順序其宜(よろ)シキヲ得施政ノ便殊(こと)ニ多シ」として、旧来の伍長・組長が任命された。このような旧村の構造が新村の行政機構の中に存続するという二重構造は、その後の町村統一秩序の障害となり、地方行政上大きな課題となった。
以上のように、四度目の地方行政制度の一大改変としての町村制施行は、郡区町村編制法から連合町村を生み出し、町村領域の拡大、連合戸長役場の設定などによってすでにその基礎は形づくられていたが、旧来の村落を超えた公共団体としての新たな行政町村を成立させたものとして地方行政制度上大きな画期(かっき)となった。

<< 前のページに戻る