北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第1節 石戸村・中丸村の成立と村政の展開

1 町村制の施行と石戸村・中丸村の誕生

町村制と町村合併

写真51 飛地組替異議答申書

(県行政文書 明650の2)

政府は、市制町村制の施行に先立って「独立自治ニ耐エル有力町村ヲ造成」(『県史資料編十九』No.一七一)するため、大規模な町村合併を推進した。この合併政策は三〇〇戸から五〇〇戸を基準として進られた。その結果、全国の町村数は明治二十一年(一八八八)に七万一三一四町村であったものが、翌二十二年末には一万五八二〇町村とおおむね五分の一に再編(さいへん)された。
この町村合併は、町村制施行によって、町村に国家行政に関する厖大(ぼうだい)な事務委任とその経費の負担の義務づけに対し、それに「耐ユル資力アル村落」を創出することにあった。しかし、政府は町村にその経費負担に耐え得るような新財源を付与せず、国税付加税にも厳しい制約をつけた。この乏しい財源下で過重(かじゅう)な行政負担をこなす能力は旧来(きゅうらい)の町村にはなく、この点から国家的要求に基づく町村合併が強行される必然性があったのである。
そのため町村制草案(そうあん)が審議されている過程で、より大規模な新町村造成のための事前調査が各府県で実施されていた。埼玉県でも明治二十年三月、政府指示の「町村郡市区画標準案」に基づいて、県独自の郡市区町村編成を具申した。具体的には、この調査は同年六月より急速に進められ、各町村三〇〇戸以上を独立村とし、それ未満は旧慣(きゅうかん)を尊重しながらも、およそ四〇〇戸を目安に合併をすすめることが、「機密(きみつ)」扱い事項として各郡長に宛(あ)て通逹され、また、政府は郡編成についても指示した。郡分合(ぐんぶんごう)標準は五万人をもって一郡とするもので、埼玉の場合この基準で郡を編成すれば、当時県人口は約一〇二万人であったので、二十郡を置くことになり小区分化されることになる。この郡分合については慣行を重視して単なる調査に終わり、実現をみなかった。しかし、郡編成の小区分化に応じて新町村の標準戸数を三〇〇~四〇〇戸とすることは導入され、同二十二年埼玉県内は一九〇九町村から四五一町村(但し、連合戸長役場数は三二九)に激減した。
この町村合併は草案の段階から各町村から異議が出された。その主な内容は、用水などの水利管理や村費賦課(ふか)に係る利害得失(りがいとくしつ)、合併後の町村会議員数の配分問題、さらに飛地組替異議(とびちくみかえいぎ)などであった。

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