北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第2節 農事改良と農業の振興

1 農業団体の結成

石戸村信用購買販売組合
石戸村では、明治二十八年(一八九五)から三十年にかけて、村会議員の配置をめぐって村内が紛擾(ふんじょう)し、その影響は産業にまで波及し、経済生活にマイナスの影響を及ぼした。そこで、経済的後退を挽回(ばんかい)するために、農事講習生の養成、米・麦・陸稲・大豆などの立毛共進、堆積肥料の改善や他肥料の共同購入を行うとともに、貯蓄心の涵養(かんよう)、風紀の改善をはかるために村内に金融機関を設立することが促された。
このような状況下において、吉田時三郎外十七名による申請が許可され、同三十六年十一月二十日、有限会社石戸村信用組合が設立された。その組合定款(近代No.一〇三)によれば、組合員の産業上必要な資金の貸し付けや貯金の便宜をはかることをその目的としていた。
組合の区域は石戸村とし、組合員は組合区域に居住し、かつ一定の産業を営むものに限られ、他の信用組合に加入することを禁じた。この組織は有限責任で、組合員はその払い込み済み出資額に応じて組合財産に対する権利を有するものとした。また、組合の事務所は、石戸村下石戸上一五七五番地に置かれ、先に示した石戸村農会と同じ場所で、両者が密接な関係にあったことがわかる。出資金は一口十円(明治四十一年より二十円に改正)でその第一回払込金額は二円とされた。
組合の概要に関しては、大正三年(一九一四)五月の「有限会社石戸村信用購買販売組合状態」(近代No.一〇八)に詳しく記されている。ここでは創立当時(明治三十六年)と大正六年の概況を比較(表43)したい。事業の主体は、貸付と貯金であった。貸付の利率は理事が定めるものとして、上限は一割三分とされた。特別の場合を除いて、貸付金の弁済期限を一年以内とした。貯金は定期預かりと当座預かりの二種類で、貯金一回の額を三銭以上十円以下とし、十円以上の預入は定期預かりとした。貯金の利子は六か月ごとに計算して元本に組み入れ、利率は理事長が定め、上限を八分とした。
表43 石戸村信用購買販売組合概況の比較
 組合員数出資口数貯 金貸付金貯金利率貸付利率
明治36年(人)
269
(ロ)
400
714円750300円6分1割1分
大正6年43560060,810円70217,147円5005分4毛1割乃至9分

(『市史近代』№108より作成)


明治四十一年(一九〇八)三月より購買や販売事業の兼営を始め、有限会社石戸村信用購買販売組合となった。購買は、産業又は生計に必要な物品を賄入して組合員に売却するもので、主に肥料の購入が行われた。それは組合員の委託で一括購入する方法をとり、東京や地方の指定された特約店から常に物価表の頒布を受け、時期を見て理事会で買い入れを決定し、組合員には申込期間・価格を通知して、一定期日まで注文を受ける仕組みであった。
販売は、組合員の生産したものに加工又は加工せずに売却をするもので、主に大麦がその対象とされた。組合員は予め委託すべき数量を申し込み、理事会で決定した時期に需要者に販売した。生産者は契約が成立した場合、検査済みの生産物を指定場所に搬入し、代金は販売完了後、数量に応じて計算分配する仕組みであった。その主な売却先は、前述の「有限会社石戸村信用購買販売組合状態」(近代No.一〇八)に詳しく記されている。販売事業を始めた明治四十一年度から大正元年度まで、大日本麦酒株式会社に対して毎年、陸軍糧秣本廠(りょうまつほんしょうに対しては明治四十三年度を除き毎年、大麦及びコルデンメロン(ゴールデンメロン)が販売された。
明治四十三年六月十七日の『国民新聞』(近代No.一〇四)によると、同四十二年四月に開催された大日本産業組合中央会の全国産業組合総会の際に、特に成績優良なものを表彰しており、埼玉県から石戸村(信用)購買販売組合が南埼玉郡潮止(しおどめ)信用組合・北葛飾郡彦成(ひこなり)信用組合・児玉郡猪俣(いのまた)第一信用組合とともに選ばれ、表彰された。
大正七年一月十八日付の『東京日日新聞』(近代No.一〇九)によると、十六日の通常総会時において、石戸産業組合(信用購買販売組合)は全村組合員となり六万一〇〇〇円の貯金を有し、県下第二位の模範組合であった。

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