北本市史 通史編 近代
第2章 地方体制の確立と地域社会
第2節 農事改良と農業の振興
2 荒川の舟運業
荒川の渡船明治初期に交通上の諸制限が撤廃され、人や物資の交流が自由になった。特に明治政府は、橋梁を架け、渡船を設けることは、旅行を便利にするものとして認め、そのためには橋税・船賃を定めてとることをよしとして、橋梁・渡船の設置を推進していった。架橋・渡船が解禁されると、荒川には多くの橋梁と渡船が設置された。
『武蔵国郡村誌』によると、明治九年(一八七六)で、荒川に渡船場が六十か所(実際には、渡船場の両岸の村名が存在するので、四十六か所)が、数えられるようである(前掲書)。
北本市域では、三つの渡船場が存在していた。荒井村から横見郡荒井新田へ、高尾村から横見郡高尾新田へ、そして石戸宿村から比企郡小見村新田への渡船場である。
明治十一年一月の「渡船橋梁免許台帳荒川渡船賃銭表」(近代No.一一二)には、石戸宿村と荒井村の渡船の様子が記されており、石戸宿村では、常水・出水で平均川幅三十三間で、賃銭は乗合一人(持ち荷共)二厘、荷馬一疋(馬子共)五厘であった。また、荒井村では、以下同様に川幅三十七間、乗合一人二厘五毛、荷馬一疋六厘であった。この賃銭額は、後年まで維持されていた。
大正四年(一九一五)五月、川口佐五郎ほか二名の渡船場の開設に関して、この三名が明治十一年以来継続し営業をし続けていたものであるのかどうかの確認のための指令書提出の照会がなされている。郡より村に対して、営業権継承の申請に対する照会がなされたのである。
また、同四年七月には、石戸村の荒川通同村地内大字高尾川岸渡船場より、賃銭値上げの「賃銭増収許可願」(石戸村 三四八)が提出され、八月に村から県へ申請をし、許可された。この願いに添えられていた理由書を見ると、値上げの理由として、物価高騰(こうとう)と渡船修理材料・職工賃銀の上昇をあげている。また、賃銭が三十有余年据置であったことが記されており、現在の二厘のままでは資金繰りがままならず、三厘の増加を希望していることが書かれている。
大正十年(一九二一)四月には、石戸村に荒井地先荒川筋に県道連絡のための賃取渡船場開設の願いが提出されており、この時期にはまだ渡船が事業として成り立つものであったことがわかる。
しかし、渡船は、交通手段の発展にともない、道路が整備され頑強な橋梁が建設されることによって、衰退を余儀なくされていった。