北本市史 通史編 近代

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近代

第2章 地方体制の確立と地域社会

第2節 農事改良と農業の振興

2 荒川の舟運業

舟運の衰退
明治六年(一八七三)に地租改正法が出され、地租改正事業が実施に移された。地券を交付された土地所有者である地租負担者(納税者)に対して、金納すなわち貨幣による納税が課せられた。この租税制度の転換(年貢米の金納化)によって、舟運は一時期苦境に陥るが、内陸部への大量輸送機関が存在しない段階では、やはり重要な位置を占めていた。
しかし、同十六年七月二十八日の日本鉄道会社の上野・熊谷間の路線開通と、翌年六月二十五日の高崎までの路線延長(現JR東日本高崎線)が、河川舟運に大きな影響を与えた。また、同時に進められていた道路網の整備も、舟運に大きなマイナス影響をもたらした

写真60 荒川十河岸聯(れん)合運賃改正誓約書

(田島和生家 115)

明治二十年代においては、高崎線の影響は、荒川下流の河岸場では、概してあまり大きな変化としてあらわれていないが、上流の河岸場では、明らかに衰退現象が見られる。「荒川筋埼玉県横見郡東横見村荒井河岸場輪出入貨物統計表」(近代No.一一三)を見てみると、輸出・輸入とも、貨物品目・数量・見積価格とも著しく減少傾向を見せており、衰退していった様子が知られる。輸出をみても、江戸時代より商品作物として、積極的に栽培されていた芋の輸送が、明治二十二年度を最後に船輸送されていないということは、舟運の衰退を物語るうえで、あまりにも象徴的なことである。
同十六年の「荒川十河岸聯合運賃改正誓約証」(田島和生家一一五・写真六十)の写控が、調査により市内で発見され、その中に荒川十河岸聯合物資の上り下りの「換正直(値)下賃額表」が記されている。
この表中には、上り・下りの船の物貨の品目が書かれており、当時、十河岸でどのようなものが、取り扱われていたかがわかる。
上りでは、砂糖・石油・種油・塩などの品目があげられ、下りでは、米・大豆・小豆・油粕・味噌油・木炭・柏木皮・大白・隠元(いんげん)・大豆・細川紙・大和漉秩父生紙の品目があげられ、それぞれ運賃が記載されている。
荒川の十河岸(新川・玉作・大芦・小八林・五反田・一ツ木・糠田・御成・高尾・鳥羽井)では、話し合いによって、運賃を値下げすることを定めていた。値下げの理由として、「方今物価低落ナリ」と「鉄道ノ運搬営業ノ障碍」の二つをあげている。物価低落は、松方財政といわれる大蔵卿松方正義のとった財政政策の影響が、ここにも現れているように思われる。デフレ政策による物価の低落は、全国の農村を直撃し、農民の没落を生んだわけであるが、農村を背景とする河川河岸にも、すでに影響がでていたのである。
また、鉄道の影響も深刻であったと思われ、「日本鉄道会社は同年八月熊谷付近の荷主の要望により、生糸輸送を開始」(前掲書)という事態には、河岸問屋もこの事態を深刻に受けとめざるをえないものがあった。また、日本鉄道会社は、翌年貨物運賃値下げ、ダイヤ増強を行い、河岸問屋としても、値下げをしなければならない状況にあったと思われる。
大正に入っても、高尾付近まで船が通っていたことが、伝えられているが、かつてのにぎわいはなかったといわれている。

<< 前のページに戻る