北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第3節 国民教育体制の確立

1 小学校教育の確立と普及

小学校制度の整備・確立
明治二十三年(一八九〇)十月七日、文部省は同十九年の第一次小学校令を廃して、新たに第二次小学校令を公布した。この第二次小学校令は、市制・町村制の新しい地方自治制度の施行に伴うもので全八章九六条からなり、小学校の本旨及び種類、小学校の編制・就学、小学校の設置、小学校に関する府県郡市町村の負担及び授業料、小学校長及び教員、管理及び監督など、およそ小学校制度の全般にわたる基本的事項について詳しく規定している。
この小学校令において着目されることは、まずその第一条に「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」と定め、小学校教育の目的を初めて具体的に示したことである。徳育を最優先したこの目的規定は、教育勅語制定の政策動向を投影したものであって、ドイツのザクセン・マイニンゲン公国の学校法規が重要な参考とされた。その後、小学校令はいくたびか改定されたが、本条は改められることなく、昭和十六年の国民学校令に至るまで半世紀にわたって通用した。
小学校は尋常小学校・高等小学校のほかに、徒弟学校と実業補習学校が小学校の種類に加えられていた。尋常小学校を四年または三年とし、小学簡易科を取り止めた。これによって義務教育は最低三年となった。高等小学校は二年・三年・四年の三種類とした。このほかに尋常小学教科と高等小学教科を併置した尋常高等小学校も認めたので、小学校は一挙に五種類に多様化した。
尋常小学校の教科目は、修身・読書・作文・習字・算術・体操の六科目で、体操は土地の状況により欠くことができるとした。高等小学校では、このほかに日本地理・日本歴史・外国地理・理科・図画・唱歌が加えられた。また、尋常・高等の両小学校ともに補習科をおくことができ、さらに高等小学校には農・商・工等の専修科を設置できるとした。
小学校の設立・維持については、市制町村制による地方制度との関連において詳細に定められた。まず義務教育を施す尋常小学校の設置義務を各市町村に課し、高等小学校の設置はこれを任意とし、府県知事の許可を要するとした。これにより一般行政区域とは別に学区を設定することは原則として禁じられ、教育行政と市町村行政の一本化が図られた。ただし、単独で小学校を設置し得ない町村の場合には、他の町村と協同して学校組合を組織できること、あるいは児童の教育事務を他の町村に委託できること、また私立小学校をもって公立尋常小学校に代用することができること等を認めた。
小学校の経費は、設置主体である各市町村の負担とされた。そのため、これまでと同様に月々授業料を徴収(ちょうしゅう)する方策を続行した。一家で複数の子どもが同時に就学している場合や保護者が貧困の場合には、その減額あるいは免除を認めたほか、物品または労働による代納も認めた。資力に乏しい町村に対しては郡が、市及び郡に対しては府県が、それぞれ教育費補助をなすことができるとしたが、国庫補助金については何ら規定しなかった。
管理監督については、各郡に郡視学(一名)をおいて郡内の初等教育の監督に当たらせることにした。市町村及び町村学校組合には、その長を補助してそれぞれの属する国の教育事務を行う学務委員を置き、その委員には必ず公立小学校男子教員を加えることとした。
なお、明治二十三年(一八九〇)の第二次小学校令は、市制町村制に見合って初等教育制度を全面的に改革するものであったから、その実施に先立って多くの附属法令の制定を必要とした。しかし、その制定作業は手間どり、全面実施への法的準備が整ったのは、同二十四年十一月であった。かくして、明治二十三年の第二次小学校令は、同二十五年四月一日より全面的に実施された。小学校が「徳性ヲ涵養(かんよう)シ人道ヲ実践」することを「第一ノ主眼」とし、「殊二尊王愛国ノ志気ヲ発揚(はつよう)」して「忠良ノ民」を育成するという、我が国特有の近代初等教育の原型は、この時期に形成されたものといえよう。
それから一〇年を経た明治三十三年(一九〇〇)八月二十日、第二次小学校令を廃して第三次小学校令が公布された。この小学校令によって尋常小学校の修業年限は四年に統一され、高等小学校のそれは二年、三年または四年としたが、将来の義務教育年限の延長一六年制義務教育実現の準備として、なるべく二年制の高等小学校を尋常小学校に併置(へいち)することを奨励した。
この第三次小学校令の特徴は、第一に義務教育制度を整備したことである。まず義務教育の期間については、学齢(満六歳)に達した月以後の最初の学年の始めから尋常小学校の教科を修了するまでと定め、就学の始期と終期を明確にし、その間、保護者は「学齢児童ヲ就学セシムルノ義務」を負った。就学の猶予(ゆうよ)または免除についても厳格に規定するとともに、尋常小学校未修了の学齢児童の雇傭(こよう)者には「其ノ雇傭ニ依リテ児童ノ就学ヲ妨クルコトヲ得ス」とし、義務教育の徹底を期した。
義務教育制度の整備は、就学義務の面からだけではなく、財政面からも促された。すなわち、尋常小学校の授業料を原則として廃止し、その費用はこれまで同様「市町村、町村学校組合又ハ其区ノ負担」とした。ここに無月謝制による義務教育が初めて実現したわけであるが、この制度の採用は必然的に市町村財政における教育費の増加をきたし、それが市町村財政を圧迫することは必至であった。
すでに第二次小学校令期に早くもそうした事態が現れ、明治二十九年(一八九六)三月に「市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法」、.同三十二年に「小学校教育費国庫補助法」が定められ、教育費に対する国庫補助がなされたが、小学校令を改正した翌三十三年に右の二つの補助法を併せて、新たに「市町村立小学校教育費国庫補助法」が定められた。これは公立小学校教員の年功加俸・特別加俸分として、学齢児童数及び就学児童数の和に比例して、教育費を補助するというものであった。この小学校教育費の国庫補助制度は、後の義務教育費国庫負担制度の基礎を用意したものとして、義務教育史上重要な意義をもつものといえよう。
第三次小学校令の特徴の第二は、教科内容の整理統合である。すなわち、小学校の教科目や教授時間を整理し、修業及び卒業試験を廃止した。従前の読書・作文・習字は国語という新教科に統合され、尋常小学校の教科目は、修身・国語・算術・体操の四科目とし、土地の情況によっては図画・唱歌・手工・裁縫(女児)を加設できるとした。
高等小学校の教科目は、修身・国語・算術・日本歴史・地理・理科・図画・唱歌・体操とし、女児のために裁縫を加えることとした。また、毎週教授時数を尋常小学校では三〇時間を二八時間に、高等小学校では三六時間を三〇時間に削減(さくげん)した。これらの改正は、児童の学習負担を軽減し、教授内容を児童との関係においてより適切にして国民教育の実効を高めようとするものであった。尋常小学校で使用する漢字数を一二〇〇字以内において選定したり、発音かなづかい(棒引きがな)を採用したのも同様の趣旨によるものであり、修了又は卒業試験を廃止して平常の成績によることにしたのも、また同様の考えによるものであった。
なお、これらのことは小学校令施行規則に一括(かつ)して定められた。従来、教科課程については「小学校教則大綱」、設備については「小学校設備準則」、というように、各省令で定められたものを統括(とうかつ)したものである。その後、中学校その他にもこの形式がとられるようになった。

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