北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第3節 国民教育体制の確立

1 小学校教育の確立と普及

新村の誕生と尋常小学校

写真62 加藤元右衛門 第2代学校長

(『中丸小学校史』P50より引用)

連合戸長役場制に基づく学区と学校は、明治二十一年(一八八八)の町村制の実施による新町村の成立によってまたまた再編されることとなった。本市の場合、ここに誕生した新村が石戸村(下石戸上・下石戸下・石戸宿・高尾・荒井の五か村を合併)と中丸村(東間・北本宿・深井・山中・宮内・古市場・北中丸・常光別所・花ノ木の九か村を合併)である。そして、この新村がそのまま新しい学区となった。
五か村を合併して誕生した石戸村は戸数五八五戸、人口三八四二人で、当時村内には石戸学校と共盛学校高尾分教室が存在した。両校とも村民の拠金によって新築された学校であり、また村民間の感情などを考慮して無理に一校に統合せず、しばらく両校を仮教場として存続することとした。すなわち、石戸学校が石戸学校石山仮教場、共盛学校高尾分教室が石戸学校高山仮教場となった。高山仮教場が独立の尋常小学校になったのは、同二十六年、石山仮教場のそれは日清戦争が勃発した同二十七年であった。なお、その年には明治十九年、一学区一校主義のもとに廃止された西石学校(放光寺)が石山尋常小学校城山分教場として復活した。そして、それが独立の尋常小学校になったのは、第三次小学校令が公布された明治三十三年であった。
九か村を合併して成立した中丸村は、戸数三九七戸、人口二八八四人で、村内には新築間もない山中学校が一校あった。したがって、当然本校の存続となったのであるが、校名が新村にふさわしくないとの声があがり、校長(加藤元右衛門・北中丸出身)が中心となってこれを改め、明治二十五年(一八九二)八月二十五日、中丸尋常小学校と改称した。そのころの小学校の経費は、設置主体である各市町村等の負担であったから、従前同様、月々授業料を徴収した。石戸・中丸両校とも、その徴収方法は等級と学年とを組み合わせた併用型であって、石戸尋常小学校の場合は三等に、中丸尋常小学校の場合は七等に分けられている。その額を示せば表44・45のとおりである。

図11 石戸村立小学校開校式順序

(福島善一家 14)


表44 石戸尋常小学校授業科額(明治25年)
学年
等級
1学年2学年3学年4学年
1等6銭8銭12銭15銭
2等5銭7銭10銭12銭
3等2銭4銭6銭8銭

(県行政文書 明1893より作成)


表45 中丸尋常小学校授業科額(明治25年)
学年
等級
1学年2学年3学年4学年
1等20銭
2等17銭
3等14銭
4等10銭
5等8銭
6等6銭
7等2銭

(県行政文書 明1893より作成)


この表44・45から明らかなように、当時は学校によって授業料額が違い、一定ではなかった。また、「各児童ニ対スル授業料額ハ其学年ノ等級範囲内ニ於テ授業料ヲ納ムへキ義務アル者ノ貧富ニ依リ之ヲ指定ス」(前出授業料額の添え爾き)ということであるから、各児童の納入月額は保護者の貧富によって異なっていた。

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