北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第3節 国民教育体制の確立

1 小学校教育の確立と普及

高等科の設置

写真66 石戸・川田谷組合立の川田谷高等小学校

(矢部洋蔵家提供)

小学校が尋常・高等の二段階に区分されたのは明治十九年の第一次小学校令であった。当時の修業年限は尋常科・高等科ともに四年で、義務教育は尋常科四年を原則とした。その尋常科も義務教育として法制化されたのはこの第一次小学校令であって、それ以前はいわゆる義務教育ではなかった。しかし、小学校の中心課程としての尋常科は、明治初年以来の国民皆学方針の下に常にその振興が策されてきた。したがって、尋常科に相当する小学校はその数に増減があるものの、全国に設けられ一定の展開をみてきた。
ところが、高等科は尋常科から接続する初等教育機関として制度化された新しい学校ないし課程であるから、第一次小学校令の実施に当たって、各府県はその設置をどのように進めるかが当面の問題となった。埼玉県では各郡長の具申にもとづいて高等小学校の設置区域及び位置を定めたが、その数は少なかった。高等科の設置がより進行したのは明治二十年代の半ばであった。
北本市域についてみると、石戸村は明治二十五年(一八九二)九月三十日、川田谷村(現桶川市)と高等小学校組合を組織し、川田谷高等小学校を設置した。といっても、この高等小学校はこの時に設けられたのではなく、北足立郡第四高等小学校として明治二十年十一月に創設された由緒(ゆいしょ)ある学校であった。その学校を第二次小学校令の実施に際して隣村石戸村と組合を結成し、組合立高等小学校として存続したわけである。この組合立高等小学校は明治四十年度末で廃止され、翌四十一年度からは「従来本校ニ入学セシメル生徒ハ川田谷尋常小学校併置(へいち)ノ高等小学校、及高山尋常小学校併置ノ高等小学校ニ収容スル」(近代N0.一八九)こととなった。ここに石戸村立高山尋常小学校は石戸村立高山尋常高等小学校となった。
一方、中丸村は旧東間村連合(九か村)をもって誕生した村であって、高等小学校設置への動き(資金集め)はすでに連合村時代からみられた。尋常小学校への就学者が増加し、高等小学校への進学希望者が多くなるにつれ、高等科の併置を望む声が次第に村民の間に高まった。そこで加藤校長が中心となって明治二十五年(一八九二)頃より高等科を開設する準備に取りかかった。そして翌二十六年二月二十四日に認可を受け、同年四月一日に開校式を挙行した。その様子はおよそ次のようであった。
 式ヲ挙行ス、正后生徒ヲ教室ニ集メ鮓(すし)ヲ与エ、午後一時高等科併置ノ祝典ヲ行フ、其式場順序左ノ如シ
 一一時点板卜共ニ高等科生徒、尋常科生徒各教室ニ整列、但シ指揮者先導歩調楽器ニ依ル
 一尋常科入場
 一高等科入場
 一生徒父兄有志入場、但シ校長案内
 ー校長案内ニテ村長、教員、村会議員、村吏着席
 ー拝礼、但シ楽器ニ依ル
 一奏楽「君が代」ノ譜(ふ)
 一村長、祝詞
 一校長、演説
 一大久保訓導、演説
 一村会議員総代 松村銀蔵氏祝詞
 一有志者、岡野幸太郎氏祝詞
 一奏楽「園生ノ梅」ノ譜(ふ)
一礼拝
 一高等科生徒退場 但シ指揮者先導楽器ニ依ル
 一尋常科生徒退場 右二同シ
 一右終ワリテ午后三時ヨリ祝宴ヲ開ク

(『中丸小学校八〇年史』P五六より引用)


これによって、高等科の開校式が村をあげての一大イベントとして盛大に行われたことが知られる。
こうして中丸尋常小学校は中丸尋常高等小学校として、新たな歴史の第一歩を踏み出したのであるが、明治二十七年(一八九四)三月に卒業した第一期卒業生はわずか男子四名であった(前掲書)。なお、本校への入学者は中丸村のみではなく、隣接の常光村・石戸村からも毎年数名あり、大正初期までにその数は七〇名を超えたという(前掲書)。
以上、高等科の設置について述べたが、当時の高等科卒業生はそれぞれの地域のリーダーとして活躍し、地域や文化の発展に大きく貢献した。このことは高等科の入学及び卒業者の社会階層とも関係している。

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