北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第3節 国民教育体制の確立

1 小学校教育の確立と普及

就学率の上昇と義務教育年限の延長
日淸・日露の二大戦争の勝利を一大契機(けいき)として我が国の産業は飛躍的に発展し、資本主義は急成長を遂げた。このことは国民生活はもちろん、教育の面にも多大な影響を与えた。
学校教育の基底である小学校については、明治三十三年八月に第三次小学校令が公布され、尋常小学校の修業年限が四年に統一され、その課程が義務教育となった。ここに初めて四年制の義務教育制度が成立したわけである。高等小学校の修業年限は二年・三年・四年の三本立てとしたが、将来の義務教育年限延長への布石として、なるべく二年制の高等小学校を尋常小学校に併置することを奨励した。この方策は各府県に浸潤(しんじゅん)したようで、翌三十四年以降高等小学校の数は急激に増加した。
一方、学齢児童の就学率も急上昇し、全国平均値でみても、同三十三年に男子が九〇パーセントを、翌三十四年には女子が八〇パーセントを超(こ)え、同三十五年には男女平均で初めて九〇パーセントを突破し、同四十年には九七パーセントに逹した。市域の尋常小学校の場合も全国平均値と同様な歩調をとったとみてよく、例えば中丸校では同三十六年に九八・七パーセント、翌三十七年には九九・〇、同四十年にはついに念願の一〇〇パーセントの目標を達成した(『中丸小学校八〇年史』)。
こうした学齢児童の就学率の急上昇を背景に、明治四十年(一九〇七)三月、第三次小学校令を一部改正し、尋常小学校の修業年限を四年から六年に延長した。ここに六年制義務教育が成立し、翌四十一年四月より実施された。一挙(いっきょ)に二年という大幅延長であったにもかかわらず、当時それがあまり混乱なく施行されたのは、就学率の高まり、二年制高等小学併置校の増加といった実質的な裏づけがあったからである。同時に、日露戦争前後における日本の国際的地位の向上及び教育に対する国民意識の高揚等も義務教育年限の延長に有利に作用した。

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