北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第3節 国民教育体制の確立

2 青年補習教育の振興

夜学会による青年補習教育

写真71 青年夜学会修了証書

(『中丸小学校80年史』P73より引用)

明治二十三年(一八九〇)の第二次小学校令において初登場した実業補習学校は、同二十六年の同規程によって実質的内容を与えられて以来、青年補習教育の代表的な機関とみなされてきたが、義務教育が普及しない間はその普及こそが先決であったから、実業補習学校のような義務教育後の教育は当面の重要課題にはならなかった。勤労青年に対する教育が一躍クローズ・アップされ、実業補習学校(多くは農業補習学校)が急増したのは明治四十年代に入ってからであった。しかし、その原型ないし母体をなすものはそれ以前から存在した。それが青年夜学会である。後述の青年会はこの青年夜学会を母体として成立したという経緯もあるが、市域に青年を対象とした夜学教育が開始されたのは明治三十九年であった。石戸村も中丸村も、その年に農閑期の冬期に夜間の青年教育を開始した。石戸尋常小学校がまとめた『石戸村郷土誌』には、同三十九年二月に設立された青年学会規程が収められている。
それによれば、本会は「夜間ヲ利用シ軽便ナル方法ヲ以テ農村青年ノ智徳ヲ啓発シ、兼テ風紀ヲナスヲ以テ目的卜」し、修業期間は五週間(毎年一月から二月)で、その授業時間は、日祭日を除き午後七時から一〇時までの三時間であった。教科目は原則的には修身・国語・算数の三教科であったが、時にはそれ以外の教科も教授された。青年夜学会は明治三十九年(一九〇六)の第一回を皮切りに毎年開催され、大正四年(一九一五)の第一〇回に及んでいるが、第一回から第三回までは高山尋常小学校、第四回から第一〇回までは石戸尋常高等小学校を会場にして行われた。会期は第三回までは三週間、第四回から五週間に延長された。教授に当たっては学歴(尋常卒・高等卒)または学力(甲・乙・丙、一部・二部)別に編成し、小学校教員が授業を担当した。会員数は第一回は二一七名、第二~第五回までは一〇〇~一四〇名、第六回(明治四十四年)以降は八〇~五〇名程度に減少している(青年夜学会状況一覧表)。そこで大正五年度より従来の農閑利用の短期夜学方式を改め、「一カ年ヲ通シ毎月十五日ノ夜間青年ヲ小学校ニ召集」して、効果的に「智徳其他ニ関スル講話ヲ施行」(石戸村文書四九三)することとした。

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