北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第3節 国民教育体制の確立

1 小学校教育の確立と普及

校舎の新増築

写真67 石戸時報 第2号

明治42年3月(『石戸小学校80年史』P69より引用)

尋常小学校の修業年限が四年から六年に延長され、六年制義務教育が成立した明治四十年当時、石戸村には高山尋常小学校(大字高尾字大宮)、石山尋常小学校(大字下石戸下字向郷)、城山尋常小学校(大字石戸宿字城山)三つの学校が存在した。そのうち、髙山校は明治十五年に新築、石山校は同二十年に新築した学校であるから、すでに築二〇年、二五年を経過し「二校ハ校舎老朽シテ其用ニ堪へス」(明治四十一年三月十九日、北足立郡長より県知事に提出された尋常小学校々数並位置変更指定に付認可稟請書)という状況であった。城山校は同三十七年に新築する計画であったが日露開戦のため果せず、依然放光寺を仮用しており、設備甚だ不完全であった。その上四十一年度からは高山校に高等科が併置されることになる。
こうした状況の中で、三校を廃し合併校舎新築の議が持ち上った。この新校舎建築に関する詳細及び村民の教育に対する熱意のほどは、明治四十二年(一九〇九)三月に発刊された『石戸時報』の建築経過報告書や、県知事宛(あて)に提出された各新の認可申請手続によって、その概要を知ることができる。
それによれば、そもそも石戸村において小学校の新築が村議会において決議されたのは、明治四十年十月二十八日であった。そしてその三日後の三十一日、小字ごとに協議会を開いて新築委員を選出(村会議員二七名、小字選出委員二七名)、十一月には委員長(吉田時三郎村長)以下の役員及び資金の調逹方法等を決め、翌四十一年三月二十九日起工してから九か月、途中台風で一棟倒壊というアクシデントがあったが、十二月十五日めでたく落成をみ、従前の三校を廃して校名を石戸尋常高等小学校とした。その建坪四三五坪、敷地八反五畝一六歩、経費総額一万六〇〇〇余円、村民の寄付人夫二一四二人であった。合併校舎の新築は当時としてはまさに稀有(けう)の大事業(村経常予算の二倍)であって、吉田時三郎村長以下挙村一致この難事業に当たり、わずか九か月余りで近隣にその比をみない立派な近代的校舎を完成させた。その完成見取図は図12のとおりである。なお、新校舎が落成した明治四十一年十二月には石戸小学校の校歌が制定されるとともに、卒業式の歌や落成をたたえる歌などもつくられた。四十一年度の卒業式は木の香りの漂(ただよ)う新校舎で行われ、尋常科三八名、高等科一七名が校歌や卒業式の歌に送られて巣立った。


写真68 石戸尋常高等小学校校舎

(石戸小学校提供)

写真69 石戸尋常高等小学校の教職員

(石戸小学校提供)

図12 石戸尋常高等小学校新築校舎見取略図

(『石戸小学校60年史』P151より引用)

写真70 石戸尋常高等小学校校舎落成の祝辞

(『石戸小学校60年史』P71より引用)

一方、中丸尋常高等小学校では児童数の増加に伴い校舎の増築計画を立て、明治三十四年(一九〇一)一月十六日、関根村長は村会の議決を経て校舎増築願を県知事に提出し、同月その認可を得、直ちに工事に着手した(『中丸小学校八〇年史』P六九)。増築校舎は瓦葺木造平家で間口一〇間、奥行四間、一棟二教室と廊下、便所等で、同年五月三日に落成した。さらに校舎裏の小使室も裁縫室に転用し、一棟移転分を合わせて一〇教室となり、一応教室不足は解消した。しかし、その後の児童数の増加によって再び教室不足を生じ、同四十二年四月十九日、松村村長は校舎増築禀請書(りんせいしょ)を県知事に提出し、同年五月四日認可、早速工事に取りかかり、六月三十日に落成した。

図13 中丸尋常高等小学校校舎平面図(明治42現在)

(『中丸小学校80年史』P70より引用)

さらに、校舎増築のために拡張された校地の本校舎裏側に、一棟二教室(間口一一間、奥行五間)を増築し、これに従来の裁縫室に修理を加え、明治四十三年(一九一〇)一月に完成した。その平面図を示せぱ図13のとおりである。こうして小学校は明治三十年代後半から同四十年代にかけて新増築され、しだいに戦前期にみられた学校の姿を備えていった。

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