北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第4節 地域の生活・文化の動向

2 日清・日露戦争従軍の郷土兵

戦争終結と凱旋(がいせん)歓迎会
日露戦争は、日本が初めて欧州の烈強の一国と闘(たたか)った近代戦争であり、日清戦争とは比較にならないほどの大規模な兵員が動員され、しかも旅順(りょじゅん)での戦闘をはじめとして激烈な戦いが展開された。多くの犠牲を出しながらも連戦連勝の新聞報道に国民は喜びわきたち、特に明治三十七年八月の遼陽大会戦の勝利や同三十八年一月の旅順(りょじゅん)陥落の報が伝えられると各地で盛んに戦勝祝賀会がひらかれた。しかし、同三月の奉天(ほうてん)大会戦に辛くも勝利をおさめたものの、日本軍はこれ以上戦線を拡大し維持する物的人的余力は無かった。奉天大会戦の直後に大本営参謀総長の山縣有朋が桂太郎首相に送った意見書はそのことをよく示している。すなわち、
 顧(かえり)みるに敵国は由来欧州に於て最大の武国と云われたる者、その小弱視したる我が国に連戦連敗して終に和を求むるが如き、その自負心のこれを許さざるは、もとよりこれを察するに難からず。・・・敵はその本国になお強大なる兵力を有するに反し、我はすでに有らん限りの兵力を用い尽くし居るなり。・・・敵はいまだ将校に欠乏を告げざるに反し、我は開戦以来すでに多数の将校を欠損し、今後容易にこれを補充すること能わざるなり。

(『大系日本の歴史13 近代日本の出発』P二七六より引用)


写真86 献納金感謝状

(加藤一男家 207)

写真87 凱旋兵士歓迎会招待状

(加藤一男家 59)

このような状況の時、同年五月に東郷艦隊が日本海海戦でバルチック艦隊に勝利したのは、講和を模索していた日本にとって好機到来であった。日本のこれ以上の満州における勢力拡大を望んでいなかったアメリカは、日本の調停依頼を受諾(じゅだく)し、一方ロシアも革命激化によって戦争継続は困難となっていた。こうして、アメリカのポーツマスで日露講和会議が開かれ、日本側小村寿太郎とロシア側ウィツテを全権として、同年九月講和条約(ポーツマス条約)が調印された。
この戦争により国民は多大な犠牲を強いられた。動員された兵力は約一三〇万人、戦没者約八万八〇〇〇人、戦傷病者約四四万人であり、計上された臨時軍事費は約一七億円で、このうち一三億円は内外債でまかない(外債約七億、内債約六億)、これを稔出(ねんしゅつ)するため大増税(一般会計租税額は明治三十六年の一億四六一六円から明治三十九年の二億三四七万円へ)や軍事資金調達のための国債割当、義勇艦隊建設資金の寄付募集、軍資献納が推進された。
このような国民の多くの犠牲や協力にも関わらず、勝利に酔った国民の多くは賠償金(ばいしょうきん)も取れない講和条約に不満であった。埼玉県でも、九月四日憲政本党埼玉支部や埼玉同志俱楽部が講和条約反対決議を行った。翌九月五日には、怒った民衆により日比谷焼き打ち事件が起こった。
一方、戦争が終わり出征兵が復員すると、徴兵(ちょうへい)慰労義会などが中心になって凱旋祝賀会がひらかれた。明治三十七年(一九〇四)二月二十日に石戸村出征軍人家族保護会が結成され、出征軍人の送迎慰問、家族の扶助慰労などを行ってきたが、活動に不便の点があり石戸村奨兵義会と改称された。
中丸村の凱旋(がいせん)祝賀会は、明治三十九年三月二十八日、須賀(すが)社境内で行われた。歓迎会のための協議会が三月十一日と十七日の二回にわたって持たれ企画が練られた(近代NO.二八四)。
当日は晴天で、村人が総出で準備をし午前十一時には完了した。午後一時から兵士一同が楽隊で入場した。同二時に式を開始した。まず加藤仙次郎が北中丸歓送会総代として祝辞をのべた。

写真88 凱旋兵士祝賀会Ⅰ

山中(加藤一男家提供)

写真89 凱旋兵士祝賀会Ⅱ

山中(加藤一男家提供)

本日を卜(ぼく)し恭(うやうや)しく凱旋(がいせん)を祝す。ああ出征と凱旋とは天地乾坤(けんこん)表裏黒白の差あり、君等を歓迎する親子・兄弟・妻子・親族および吾々国民は共に慶余有(よろこびあまりあり)て誰か感泣(かんきゅう)の至りニ堪(た)イン(ママ)ヤ

で始まり、兵士の「偉大なる名誉」をたたえた。この戦争で歌人与謝野晶子(よさのあきこ)が有名な「君死にたまふことなかれ」という詩を『明星(みょうじょう)』にのせて問題となったが、出征兵士を思う家族の心情はいつの世でも察するに余りあるものである。
会は続いて、中丸村長の松村銀蔵、歓迎会員の新島豊吉と祝辞が続き、そのあと凱旋した加藤平作、加藤長吉、加藤耕助の三人が答辞をよんだ(近代NO.二八六)。そのうちの一人、加藤長吉は大略次のように述べた。
  平和がもどって喜ばない者がいるでしょうか。顧(かえりみ)れば、開戦以来二〇か月の長きに渡って満州の野をかけめぐって奮戦し、敵を撃破し陸に海に大戦果を納め、帝国の武威を揚げ国光を輝やかして東洋の平和を打ち立てたのも、ひとえに天皇陛下の御威徳と将兵諸子の忠誠義烈な忠義のためでありますが、同時に本村恤兵(じゅっぺい)会員をはじめとして国民の後援や皆様の熱誠のたまものであります。無事に帰郷でき鎮守社境内(けいだい)で凱旋(がいせん)式を挙行して頂いたのは誠に光栄であります。
式のあとは宴に移り、六時に万歳三唱をして閉会とした。一方西側では小屋掛けされた舞台で、太々神楽が施行された。
明治四十一年(一九〇八)には、石戸・中丸両村長である吉田時三郎・松村銀蔵が日露戦争遂行協力の行賞として勲七等の旭日章を授与された(近代NO.二八八)。

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