北本市史 通史編 近代
第2章 地方体制の確立と地域社会
第4節 地域の生活・文化の動向
2 日清・日露戦争従軍の郷土兵
日露戦争従軍兵士の手紙日露戦争における日本陸軍は、総指揮は大本営参謀総長(山縣有朋)と前線総本部の満州軍総指令部(総司令官大山厳、総参謀長児玉源太郎)とに分かれ、軍団は四軍に分かれていた。埼玉県から動員された兵士は近衛第一・第七師団に配置された。これら師団の編成は、おおよそ近衛師団は第二・第十二師団とともに第一軍に編成され、第一師団と第七師団は第十一師団とともに第三軍に編成された。
写真84 軍事郵便
(山本泰永家 265)
写真85 郵便はがき
明治38年(山本泰永家 62)
石戸村出身の陸軍二等軍医新井勇助は、この第三軍の第一師団第十一補助輸卒隊に属した。勇助はしばしば中丸村の山本丑太郎宛てに手紙や葉書を送った。その中の数葉を紹介し第三軍の様子を見てゆく。
拝啓去る二十六日より旅順(りょじゅん)攻撃を開始致し候二付、天長節頃ニはかならず陥落の事と予定致居候所、あにはからんや敵は意外の頑強にして、とても急に陥落いたす見込これ無く。
(明治三十七年十一月五日付)
と述べている。
しかし、ロシアのバルチック艦隊の迎撃(げいげき)のため、いつまでも旅順口を封鎖しつづけて陸軍を助けていられない海軍が、艦隊の引き揚げ時日を十二月十日と通告してきたことが、第三軍に最後の決心を迫った。
第三軍は十二月五日最後の総攻撃をかけ、二〇三高地の占領に成功した。日本軍の死傷者は一万七〇〇〇人といわれた。
旅順陥落も余り永びき定めし御待遠の御事と存候へども、実際戦地ニ望み作戦計画の模様を窺(うかが)ふときは実ニむづかしき者ニて、内地ニ居て想像致すことは事変のなかなか容易の事にこれ無く、ことに敵も熱血を注いで防守する精神二御座候へは、防備は殆んど完全無欠にして(後略)
(明治三十八年二月二十四日付)
と敵の強力な抵抗と旅順要塞の堅固なことを述べている。
また軍医としての立場から、同日付の文面にて
土地及気候の異りし為か、各軍隊とも脚気、腸胃病、呼吸器病、時病、喝病等非常に多く、常々小生等はじめ各軍医目をまわす程忙わしく実ニ困苦の至ニ御座候。併し国家のため、充カ愛撫心(あいぶしん)を以て治療に従事致候
(同二月二十日付)。
として、戦争における兵士の病苦とのたたかいと、その克服に従事する勤務の多忙を述べている。
明治三十七年(一九〇四)八月から十二月にかけての旅順攻撃における第三軍の死傷者総数は約六万人、うち死者は一万五〇〇〇人といわれた。他方、第三軍を除く約十三万の日本軍は、約二二万人のロシア軍と遼陽(りょうよう)・沙河(さか)で激突し、九月から十月にかけて両地を占領したが、失った兵力は四万四〇〇〇人にのぼった。奉天をあいだに日露両軍が対峙(たいじ)して明治三十八年をむかえた時、日本側の死傷者は一〇万人に及んでいた。三月一日~十日の奉天(ほうてん)会戦では、日本軍では、一師団を除いた全兵カ二四万、ロシア軍は三二万を集中し最大の激戦となった。日本軍はこれに辛くも勝利したが、すでにこれ以上戦争を継続する余力はなかった。一方、ロシアは陸戦を続ける充分な戦力を残していた。戦場の新井勇助はこの間の様子を次のように述べている。
さて、戦地も奉天大激戦後はわずかに斥候(せっこう)の衝突(しょうとつ)くらいに止り、今日の情況にては当分我軍も攻勢を謀らざる模様ニ御座候。あわして戦闘準備は大略出来いたし居候えば何日何時攻撃を開始するやもはかられず候。
(明治三十八年七月三十日付)
日本軍の苦境を救ったのは海軍であった。五月二十七日の日本海海戦の勝利に対し、六月七日ロシア皇帝ニコライ二世もついにアメリカの講和仲介に同意した。埼玉県の戦死・病死者の合計は二〇五三名、石戸村の戦病死者は九名であった。