北本市史 通史編 近代
第2章 地方体制の確立と地域社会
第4節 地域の生活・文化の動向
4 災害
河川と村のくらし埼玉には、荒川と利根川の二大河川をはじめとして大小の河川が流れている。そこで、それらを結ぶ用水や運河が江戸時代を中心にいくつも開削(かいさく)されてきた。河川は下流に豊かな水や肥沃(ひよく)な土壌をもたらし、また舟運によって様々な物資や文化を運ぶ。その反面、一旦(いったん)荒れると大きな被害をもたらす。それ故、何回となく先人たちによって河川改修事業が行われ、現在のように整備されてきた。
徳川氏は関東の地を支配下におくと、利根川・荒川の瀬替(せがえ)の大工事を行った。元和七年(一六二一)、関東郡代伊奈忠治は江戸湾に流入していた利根川の瀬替に着手し、鹿島灘(なだ)に流路を変えた。それとともに江戸川も開削し、安全な川筋だけで江戸に達することのできる航路を開いた。荒川についても寛永六年(一六二九)、同じく伊奈忠次が流れを入間川に繋(つな)げ、現在のような荒川筋にした。元禄年間(一六八八~一七〇四)県内にある河岸(かし)は一六か所であるが、近世後期には一三〇か所余になっていて農業生産力の向上に伴って舟運が隆盛となったことが知られる(第二章第二節参照)。