北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第4節 地域の生活・文化の動向

4 災害

災害とのたたかい
豊かな川の流れも一旦(いったん)豪雨となると荒れ狂い人々に大きな被害を与える。よく言われる「河を治める者は国を治める」という諺(ことわざ)には、川とともに生きる人々の苦心と祈りが込められている。
市域においても大宮台地の西部は荒川の低地に面し、東部は元荒川(赤堀川)の低地によって限られており、またこれにいくつもの小河川や用排水路が派出していた。以下、明治期以降の主な災害についてみてみよう。
まず、明治二十三年(一八九〇)八月には台風が襲来し、二十二日から二十三日にかけて降雨激しく、二十三日には利根川沿いの北埼玉郡須賀村の堤塘が五九間に渡って欠壊し、下流の南埼玉・北埼玉・北足立・北葛飾の四郡に大きな被害を与えた。市域では表49のように、中丸村で浸水二戸、田畑の冠水四八町歩、石戸村で浸水二戸、田畑の冠水一〇八町歩が水災にあった。また同年十月にも水災があり、北足立郡長は、「自ラ生活シ能ハサル」被害者に対し食料給与の許可を知事に求めた。その数は二二三戸、内二〇日分が三四人、一五日分が四六名、三〇日分が一四一名であった。
表49 風水害被害状況
年 月 日区 域 別 被 害 状 況
明治23年8月22日~23日、30日中 丸浸水2戸 田畑 48町
石 戸浸水2戸 田畑 108町
明治31年9月7日 石 戸浸水11戸 田畑142町6反 流破壊1戸
中 丸田畑 504町 流破壊1戸
明治4并8月1日 〜11日堤防欠壊1ヶ所 ほかに資料なし

(『埼玉県市町村誌 第4巻』P24より作成)


表50 凍霜雹害(とうそうひょうがい)被害状況
名称年 月 日区 域 別 被 害 状 況
凍霜害明治26年5月6日中 丸畑 9町4反6畝
石 戸畑9反7畝
雹害明治3许5月25日石 戸田畑47町
凍霜害明治44年4月2日郡内で麦2,323町
凍霜害昭和6年5月3日郡内で桑、茶など674町8反
雹害昭和9年5月2日石 戸詳細不明

(『埼玉県市町村誌 第4巻』P24より作成)


図14 明治43年水害地域図

(『県史通史編5』P816より引用)

同二十六年五月には霜災(そうさい)があり、中丸村で桑畑・茶畑九町四反六畝、石戸村で同じく桑畑・茶畑九反七畝に被害が出た。また、養蚕も被害にあっている(近代NO.二六八)。
同三十一年九月にも水害があり、石戸村では浸水一一戸、田畑一四二町六反、流破壊が一戸、中丸村では田畑五〇四町、流破壊二尸という大被害が出た。四十年八月にも、利根川・荒川両河川において洪水による被害が出た。そして四十三年(一九一〇)には明治期最大の水害が発生した。この原因となった雨は同年八月一日から十日までほぼ連日降り続き、県下各河川は増水著しく各地で堤防が決壊(けっかい)し、田畑人畜に甚大な被害を与えた。とくに利根川流域では児玉郡旭村や仁手村で溢水(いっすい)し、次いで大里郡各地の堤防が破壊し、これが荒川筋の大麻生(おおあそう)村から流下した濁流(だくりゅう)と合流して北埼玉郡中条村の福川筋水越堤防を破壊し、北埼玉郡のほとんどの地を水に浸し、さらに北足立郡の東部と南埼玉郡、さらに北葛飾郡の六~七割を泥海と化して東京府に流れ込んだ。この時、市域では堤防が一か所欠壊したほかは、資料が無く詳細はわかっていない。しかし翌年の四月、水害義捐金(ぎえんきん)が石戸村に九七銭七厘、中丸村に三一銭四厘配付され水害の瓜跡を物語っている(近代NO.二七〇)。翌明治四十四年七月には、前年に追い打ちをかけるように暴風雨によって河川が出水し、石戸村で農作物に大きな被害が出た(近代N0.二七一)。また、大正元年(一九一二)九月には去る明治四十三年以来の水害罹災民救済のための寄贈金の配当があり、石戸村に四円四五銭ー厘、中丸村に二円九八銭七厘が配当されていて、被害の影響を示している(近代NO.二七二)。
このように打ち続く災害(とくに水害)に対して、同十二年七月二十八日、北足立郡役所は「水防協議事項」を出した(近代NO.二七五)。その主な内容を拾えば、一、堤塘の雑草等の刈払い、一、堤塘の欠割・漏穴(ろうけつ)等を発見した時の連絡、一、水防材料や器具の準備、一、水防演習、一、上流の降雨量や出水状況の電話や通信による連絡などであった。

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