北本市史 通史編 近代

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近代

第2章 地方体制の確立と地域社会

第1節 石戸村・中丸村の成立と村政の展開

2 自由民権運動と北本

民権結社
明治七年(一八七四)一月十八日、征韓(せいかん)論に敗れて下野(げや)した板垣退助(いたがきたいすけ)、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、副島種臣(そえじまたねおみ)らは、藩閥政府の官僚政治を有司専制(ゆうしせんせい)と批判し、民論の喚起(かんき)によって国政の刷新(さっしん)を図るため、民撰議院設立建白書(けんぱくしょ)を時の左院に提出し、いわゆる自由民権運動が始まった。板垣らは、すぐに愛国公党を組織し、東京に本部を置いて全国各地へ遊説(ゆうぜい)、建議の趣旨を天下に宣伝し、世論の興隆(こうりゅう)をはかった。これをきっかけとして、国会開設、地租軽減(ちそけいげん)、条約改正、憲法制定などの自由と民権を求める運動が全国各地に展開していった。
自由民権運動の中心である国会開設要求は、基本的人権を実現するために議会制政治に基づく近代的立憲政体(りっけんせいたい)の樹立をめざすものであり、また地域住民の生産と生活権を守るためには、地方自治体制の確立をめざすものであった。先述した一連の地方行政制度の改革は、まさにこの自由民権運動への藩閥(はんばつ)政府の対抗策として講じられてきたものであった。また地租(ちそ)・諸税の軽減要求は、幕藩(ばくはん)体制時と変わらない過重な租税(そぜい)負担を排し(地租は幕藩体制時の年貢率(ねんぐりつ)を基に算定し同等であった)、産業発展をそこなわない租税体系の創設をめざしたものであり、そのためには国会を開設して、租税協議権や財政審議権を認めるべきだと主張した。さらに条約改正の要求は、いわゆる安政五か国条約(一八五八年締結)という欧米列強(おうべいれっきょう)との不平等条約を早期に改正し、領事裁判権(りょうじさいばんけん)(治外法権)の撤廃(てっぱい)や関税自主権の回復を実現して民族自決権(みんぞくじけつけん)を確立すべきとし、そのためには日本が国会を開会して名実ともに近代国家であることを諸外国に示すべきだという主張であった。自由民権運動は、「人間の自由は、国家から与えられるものではなく、国家も侵すことのできない固有の権利」であるとする天賦(てんぷ)人権論を基礎にこのような諸要求を掲げて、時の天皇制的中央集権国家をめざした藩閥政府に対抗した民主主義的な政治運動であった。
このような民権運動の全国的高揚の中、埼玉県では、熊谷を中心とする県北地方から民権運動が起こっている。それは明治七年(一八七四)の開明的(かいめいてき)な熊谷県令河瀬秀治(ひではる)の留任運動である。地方民会の開設の動きは何も民権運動の一環としてだけ生れたものではなく、民政の実態を把握しようとする県令と、実態を民政に反映させようという豪農との間で一致する場合もあった。この時、熊谷県有志は県令の内務省勧業頭(かんぎょうのかみ)への抜擢(ばってき)に反対し、大久保利通(おおくぼとしみつ)の藩閥専制を批判した。これを契機として翌八年二月、この運動で先頭に立った石川弥一郎(いしかわやいちろう)が同志に呼びかけ、同年四月、規約をもった学習結社が結成された。参加者が七名いたことから七名(しちめい)社と名づけられたこの結社は毎月会合し、各自の意見を述べ、書物を輪読し、討論した。民会・国会・県会についての演題での討論が多かった。
また、明治八年(一八七五)には県下初の演説会が同じく熊谷で開かれた。竹井澹如(たんにょ)の縁で鴻巣出身で慶応義塾出の加藤政之助(正之助)らを通じ、塾員を弁士に招いて開かれた。このような学習・政治結社と演説討論会は同十年代に活発となった。当時の結社は表33のとおりである。七名社に始まる学習・政治結社の数は、わかっているだけで現在四十ある。同十四年から翌十五年にかけてが最も多く、これらはいずれも東京から新聞社社員や代言人等を弁士として招き、演説会を開いている。演説会は同十五年から翌十六年にかけてが最も多い。これはちょうど自由党と立憲改進(りっけんかいしん)党の結成に伴っており、各々(おのおの)党勢拡大のためにさかんに演説会を開いた。
表33 埼玉県の民権結社
設立年月結社名所 在中心人物備 考
明治
8年2月七名社熊谷周辺石川弥一郎、長谷川敬助社員7人
9年9月進修会熊谷周辺石川弥一郎、林勘兵衛会員50人
10年12月精義社岩槻町佐久間範二郎、河野孝義
11年2月七社名(Ⅱ期)熊谷駅石坂金一郎、中村孫兵衛開始時20人
11年3月共同会熊谷・幸手駅竹井濾如、掘越宽介 〃 32人
11年通見社羽生町掘越寛介、中島義三郎社員3,140A
12年6月蕨宿演説会蕨宿岡田正康、平田嘉吉会員100余人
12年如水社二郷半領藤波治助、大塚喜太郎社員20余人
13年1月大宮鸚(おう)鳴社大宮宿永田荘作、宗栄治郎社員90人
13年2月杉戸婆鳴社杉戸宿鈴木 彰、一場正俊社員100余人
13年4月公愛社児玉郡今井村荒川源賢
13年8月麗和交詢会浦和宿猪瀬伝一、大枝美福発会時19人
13年10月会友社比企郡川島郷片岡勇三郎、岡部雄作
13年11月四郡同胞有志会川越町福田久松、内野清太郎会員136人
14年1月勧育社(先進社)比企郡小川村野口本之助、野崎為憲社員10人余
14年5月行成社行田町三島福太郎、木口直次郎社員200余人
14年7月草加嘍鳴社草加宿高橋荘右衛門、佐藤乾信社員100余人
14年7月匡進社幡羅郡下奈良村
14年9月本立社羽生町家越 竜、森下 盛社員80人
14年10月瞽莪社宝珠花村
14年11月資友会飯能町西浜徳左右、小能正三会員60余人
14年11月淡水社岩槻町八木橋克、小沢平三郎(七名社、精義社合併)
14年明巳社本庄駅松本庄八、三俣素平社員70〜80人
14年自由偕進社杉戸・幸手宿野口 褧、渡辺 混社員120人
14年12月自由郷党川越町福田久松、内田正信党員100余人
15年1月睦交社入間郡山口村岩岡美作、中村静江社員16人
15年2月鳩ケ谷嘎鳴社鳩ヶ谷町船戸 某、潮地 某社員300余人
15年3月麗和会浦和宿星野平兵衛、永田荘作
15年3月有為会深谷駅坂本欣四郎、小川六兎会員60余人

(『県史通史編5』P334より引用)


市域ではこれら学習・政治結社も政談演説会も直接開かれた記録はないが、近隣の鴻巣や桶川地域では、政談演説会がしばしば行われた。特に明治十一年三月、熊谷に設立された共同会には鴻巣の大間(おおま)村の福島耕助(ふくしまこうすけ)が幹事として名を連ねている。彼は先の地方官会議にも六人の傍聴(ぼうちょう)人に選出され参加した。「結社大意」(近代No.二十九)によると、「天ノ斯(こ)ノ民ヲ生スルヤ必(かなら)ス貴賤(きせん)ノ別ナク均(ひと)シク之ニ賦スルニ通義権理(つうぎけんり)ヲ以テス」とあり、天賦(てんぷ)人権論を唱え、「人民ニ益シ政治ニ補アルモノハ内外ヲ問ハス百般(ひゃっぱん)ノ事績ニ就(つい)テ相(あい)共ニ講究合議」することを目的としていた。また定例会は熊谷と幸手(さって)の二か所、それぞれ四月と十月の二回開くことが定められている。幹事・副幹事に名を連ねた参加者の多くは、県北の区戸長層であり、この会をはじめ、埼玉県の民権運動の初期は、まず県北を中心に地方自治問題をとりあげながら展開され、民権思想がしだいに浸透していくなかで国会開設を唱えるようになった。この国会の開設は、同年の愛国社再興第一回大会で決議されていく。
埼玉県で国会開設請願運動を積極的に進めたのは通見社(つうけんしゃ)である。その設立は後に自由党埼玉部部理となる掘越寛介(ほりこしかんすけ)らが中心となって明治十一年九月の愛国社再興に呼応して羽生(はにゅう)で設立された。実際の運動は、同十二年十一月に羽生で国会開設期成同盟会を起こしてから始まったようで、新聞記事に埼玉県の請願運動が詳しく掲載されるのは翌十三年七月以降である。特に七月十三日には、この通見社の保泉良輔(ほずみりょうすけ)が右大臣岩倉具視(いわくらともみ)を訪ね、国会開設請願書を受理しない理由を問い、人民は「請願の権利を固有」していると主張、すみやかに請願書を受理し、国会を開設するよう迫った。
通見社とともに国会開設請願運動を続けたものに入間・高麗(こま)・比企(ひき)・横見(よこみ)の四郡同胞有志会がある。四郡同胞有志会は、国会開設建白を志向した点で異なっていた。建白書は元老院に提出するのに対し、請願は天皇への請求という違いがあった。建白書は政府に民意を上陳(じょうちん)する手段と考えられていたが、その取扱いは政府の意志によった。しかし、請願書は天皇に直接請求するもので、ことごとく拒絶されたものの民意の具申としては強い表現となった。建白書はのちの立憲改進党系に多く、請願書は自由党系の結社に多かった。この国会請願運動は全国的に盛りあがり、建白数四十二、請願数十二の合せて五十四件にのぼり、署名者総数は二十六万人にも及んだ。

<< 前のページに戻る