北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第1節 石戸村・中丸村の成立と村政の展開

2 自由民権運動と北本

埼玉県内の政党結成と政談演説会
埼玉県に自由党が成立したのは明治十五年(一八八二)である。羽生(はにゅう)の通見社、児玉郡の明巳(めいみ)会、行田の行成社(ぎょうせいしゃ)が母体となって、二月二十三、二十四日の両日、熊谷駅久山寺に埼玉有志会が開かれ、これが事実上の自由党埼玉部の結成大会となった(『埼玉自由民権運動史料』No.一八〇)。この会議は、通見社が県下の自由主義者に呼びかけて開かれたもので、各地から各村の惣代といわれた名士約五十名が集まった。名目は、「自由ヲ拡充シ権利ヲ伸張セント欲スル者ヲ会シ一致合同シテ其目的ヲ達スルコトヲ謀(はか)ル」(前掲書)とあり、当初は自由党の結党を掲げてはいなかったが、「埼玉有志会議事規則」「自由党埼玉部規約」、「自由党埼玉部明治十五年度予算(二五五円)」など十二項目を決議しており(『県史通史編五』P三四七)、役員の「部理」(埼玉支部の理事の意味)に通見社の掘越寛介、幹事に児玉郡藤木戸(ふじきど)村の明巳会の松本庄八、行成社の古市(ふるいち)直之進を決めている。規約によると、熊谷に本局を置き、埼玉を八区分し、一区画ごとに一分局を置き、分局役員は区ごとに選挙して決めることになっていた(『埼玉自由民権連動史料』No.一八五)。しかし、具体的な分区や各分局の役員は定かでないうえ、埼玉有志会の参会者全員がすべて自由党埼玉部に加盟したかも明確でない。事実、会長となった会友社(比企郡川島郷)の鈴木善恭(すずきよしやす)をはじめ、勧育社系(比企郡小川町)の人々は、のちの立憲改進党に加盟しており、当日顔を出した竹井澹如(たけいたんにょ)ら七名社・匡進(きょうしん)社(幡羅(はたら)郡下奈良(しもなら)村)系の人々は、自由党、立憲改進党のどちらにも加盟していないので、この埼玉有志会は、いわば本格的な自由党結成の過渡的(かとてき)な結集で、広範な自由主義者の集まりであったといえる。
表34 埼玉県改進党名簿
氏 名住 所年 齢備 考
横田三九郎北足立郡鴻巣宿三五
横田新右衛門  〃三九
永田庄作 〃  土屋村三六〇平民酒造業
福岛耕助 〃  大間村四四〇平民私立銀行役員
大島寛爾 〃  浦和宿寄留二九
星野平兵衛 〃  浦和宿三五
戸塚弥吉 〃  東立野村三五
高橋庄右衛門 〃  原嶋村三六〇平民会社役員
高橋庄兵衛 〃   〃 二〇
野口甚右衛門 〃  谷古宇村四〇〇野口甚左衛門カ
大川弥惣右衛門 〃   〃 三四
大川八良右衛門  〃  宿篠葉村三六〇大川八郎左衛門カ
八木橋克 〃  深作村四〇〇平民農
山川己之助 〃  草加宿三五
淸 見 清 助 〃  谷古宇村二三〇浅見清助力
島田伊右衛門 〃  鴻巣宿二一〇島田伊左衛門カ
成田左傳次 〃   〃 四〇
鈴木唯右衛門 〃   〃 三四
須永安兵衛 〃   〃 四二
野本吉兵衛 〃   〃 五六
樋ロ 三平 〃  常光村五一-O -
河野亀三郎 〃   〃 三四〇河野亀次郎カ
河野茂三郎 〃   〃 三七
松村利右衛門 〃  上谷村五〇
渡辺與吉 〃  出生塚村三五
長島貞吉  〃  水谷村三六〇長島甚吉カ
中根得多郎 〃   〃 三〇
酒巻藤兵衛 〃  笠原村
加藤政之助 〃  滝馬室村三三〇平民新聞社役員
石田 正 〃  鴻巣宿三三
近藤由之 〃  落合村四一
白子周助 〃  片柳村三〇
鈴木条之助 〃  大間木村三八〇鈴木久米之助
宇田川孫蔵 〃  草加宿四〇
石塚邦昌 〃  本太村三七
大室和太郎 〃  栄和村三七
内木金助 〃  西堀村三六
片岡鱗之助 〃  清河寺村三六
古沢平三郎 〃  鴻巣宿四〇
仙場平八 〃   〃 三九
大島牧太郎 〃  宮内村二七
長島又七郎 〃  水谷村五九
小松原山三郎 〃  宮前村三九
秋谷 玄又 〃   〃 三〇〇秋岡玄又カ
金井休之介 〃  箕田村二四〇金井久之助力
福島孫四郎 〃  鴻巣宿〇福嶋弥四郎力
戸井田彦兵衛  〃  大計村 四三
近藤勝五郎 〃  鴻巣宿
深井 豊造 〃  田島村三七〇涌井豊造カ
加藤縫次郎 〃  北中丸村三六
浪江 梯三 〃  西遊馬村三一
榎本佐右衛門 〃  下大久保村三六〇榎本佐左衛門カ
高柳助太郎 〃  坂田村三六
八木橋喜四郎 〃  深作村三九
小島三次郎 〃   〃 三五
銭場 賢助 〃   〃 四三〇銭場賢輔力
小澤益太郎 〃   〃 一八
石川新左衛門 〃  中釘村四二〇石川新右衛門カ
山田彌次兵衛 〃  浦和宿三九
矢部 七助 〃  原市村三七〇矢部七郎カ
須田 森蔵 〃  久保村三四〇須田守三カ
本木政之助 〃  加納村三六
石田彦兵衛 〃  下木崎村
岡村俊太郎 〃  大間木村二七〇岡村徳太郎カ
大熊連之助 〃   〃 二六
飯島 常八 〃  堀崎村二六
家里 周三 〃  瓦葺村四〇
田中菊三郎 〃  小室村二四
長島辰之助 〃  新堤村二五〇飯崎カ
飯島和四郎 〃  小深作村四〇
金子権右衛門 〃  宮ケ谷塔村五一〇金子権左衛門カ
小川 幸内 〃   〃 四二
宮岛 耕三 〃  丸ケ崎村四〇
渋谷 政吉 〃  浦和宿二七
岡村伴右衛門 〃  大間木村四三
蓮見武八郎 〃   〃 二九
山口清三郎 〃  浦和宿二三
岩波 長造 〃   〃 四三
榎本善左衛門 〃  塚本村四五
中村 玉吉 〃  田島村三二
浅子清次郎 〃  深作村三二
三橋喜三郎 〃  別所村
三須丈右衛門 〃  柏間村三二

(『埼玉自由民権運動史料』P七六八ー七七四より作成)


これに対して埼玉県における改進党の成立は、明治十五年(一八八二)四月である。その結成に最も尽力した人物は、北足立郡馬室村(現鴻巣市)の旧家に生まれた加藤政之助である。同年四月二、三の両日、加藤ら慶応義塾出身者が結成した東洋議政会のメンバーが、浦和、鴻巣、松山の各地を分かれて遊説(ゆうぜい)している。県会議員であった大間村出身の福島耕助、鴻巣宿の横田三九郎、横田新右衛門、北埼玉郡郷地(ごうじ)村の肥留川治郎右衛門らが発起人となって開かれた鴻巣駅政談演説会には、結成されたばかりの立憲改進党に属した東洋議政会会員の矢野文雄、井上寛一の両名が招聘(しょうへい)され、鴻巣駅で政党加盟を促(うなが)す政談演説を行った(近代No.三十一)。

写真53 県議会議員 加藤政之助

(『埼玉県議会史』より引用)

矢野はこのとき、「改進党の主旨并に其用いんと欲する手段方便を説」いた。その際、加藤政之助も内容は不明だが演説をした。しかし警官に中止させられた。市域の者も、この鴻巣駅や桶川駅で開かれた政談演説会に参加したと考えられるが明らかでない。いずれも加藤政之助の影響を強く受けた立憲改進党系の演説会が多かった。
加藤政之助は、県学務課出仕(しゅっし)を経て、慶応義塾に入学、卒業後大阪に下り、明治十二年(一八七九)から同十七年まで郵便報知新聞の大阪支局を兼ねていた大坂新報主幹を務め、関西以西での改進党の党勢拡大に大いに貢献した人物である。彼が政界に登場するのは、同郷の福烏耕助と草加(そうか)の髙橋荘右衛門の尽力による。この二人は、政之助の政治、経済に明るくかつ官吏としての手腕を高く買って、第一期・第二期ともに正副議長を県北に奪われていた県会に引き出し、県南勢力を伸張しようとしたのである。その結果、政之助は、同十三年大阪にあって埼玉県会議員に当選し、同十五年三月には期待どおり副議長、同年五月には議長に選出され、以来同二十三年まで議長を務めた人物である。彼は、矢野や、のちに憲政の神様と呼ばれた尾崎行雄(おざきゆくお)、犬養毅(いぬかいつよし)らが来県した先の同十五年四月二日、浦和で開かれた県会議員懇談会で、県会議員へ入党の呼びかけを行っている。埼玉改進党が結成されたのは、この四月と推定されるが、同年六月改正の集会条例の政治結社の支部設置条例に触れ、恐らくすぐに解散させられたと思われる。
ちなみに、表35によると、改進党入党者の半数近くは、北足立郡出身者で、嚶鳴(おうめい)社が基盤としていた大宮の浦和・草加からの入党が多く、加藤政之助の出身地馬室村(現鴻巣市)及びその周辺の村々からの入党者が二十人を超えているのは注目に値する。市域では、宮内村の大島牧太郎(まきたろう)、北中丸村の加藤縫次郎(ほうじろう)の二名が入党した。
表35 埼玉県下の党員分布  (明治17年現在)
政党
郡名
自由党改進党合計
北 足 立20人79人99人
新  座66
入  間131023
高  麗33
比  企99
横  見99
秩  父30(44)30(44)
児  玉11
賀  美11
那  珂
大  里11
幡  羅66
榛  沢18( 5)18( 5)
男  衾
北 埼 玉591473
南 埼 玉82331
北 葛 飾23932
中 葛 飾33
不  明61319
合  計186(49)178364(49)

注( )内は「秩父事件史料第2巻」により補足
(『埼玉自由民権運動史料』P760~774より作成)

その後も市域周辺では盛んに改進党系の政談演説会が催されている。例えば、明治十六年(一八八三)十一月三日に、桶川駅の大雲寺において改進党政談演説会が開催されたが、この演説会終了後、巡査が突然「官吏侮辱(ぶじょく)の廉(かど)あり」と令状を示し、弁士の桶川の改進党員樋口三平(ひぐちさんぺい)を逮捕(たいほ)するというハプニングが起こった。しかし十二日あまりで放免されたあと、盛大な祝宴を張ったとあり、当時は弾圧(だんあつ)を受けても、人々の熱意は逆に高まっていったことが窺(うかが)われる(近代No.三十二)。
一方、当地は改進党員だけではなく、自由党員も何名かいた。明治十七年(一八八四)七月二十二日、鴻巣在の滝馬室村自由党員西崎利助、金子佐平、島田菊松、島田伊之助、西崎沐二郎(もくじろう)等が発起人となって、同村の常勝寺で自由党政談演説会が開催された(近代No.三十三)。弁士として東京から山川善太郎、大久保常吉の両氏を招き、「立憲政体論」や「文明の政治家は最も度量の寛大(かんだい)なるを要す」などの演説が行われた。西崎利助らが党員であったかどうか、埼玉県自由党員名簿に名がないので、詳細は不明であるが、加藤政之助の出身地である当地においても、改進党に組みしない人物が存在していたことはまちがいない。

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