北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第2節 地域産業の発展と動揺

1 生活基盤の整備

石戸村の耕地整理
石戸村の耕地整理は、明治四十一年二月に着手し(『石戸村郷土誌』)、三月八日に第一回創業総会が開催され(近代№一〇〇)、本格的な耕地整理事業が始まった。
そして、最終的に登記が終了したことをもって、この事業は同四十三年三月三十日の総会での事業報告・収支決算により完了した。二年二か月の日数を要してここに完了し、その費用も一反歩金四円一〇銭ということで、成績が良好と評価された(近代№一〇一)。
表55 石戸村耕地整理概要(反別比較)
地 目整 理 前整 理 後
 面 植面 積
二七町三反二五歩 一二八町四反七畝二六歩
五七町二反五畝一八五七町三畝一九歩
山林二反五畝一四歩一畝一七歩
原 野一町八反二畝一七歩一町四畝反一畝二二歩
小 計八六町六反四畝一四歩八六町九反四畝二四歩
道 路二町九反一畝一ニ歩三町七反七畝
溝 渠(こうきょ)六反九畝〇九歩三町八反四畝七歩
堤 塘三反三畝一八歩三反三畝八歩
小 計三町九反四畝〇九歩七町九反四畝一五歩
  (乾湿状態)
地 目整 理 前整 理 後
乾 燥 地湿 地乾 燥 地湿 地
二丁 八畝二四町六反二五歩一九町九反七畝二六歩八町 五畝
三四町 二畝歩ニニ町二反五畝一八歩五一町三反三畝二九歩五町 七畝

(『石戸村郷土史』より作成)

耕地整理の完了した石戸村の整理概要を、整理前と整理後という比較で見てみたい。
表55を見ると、整理前と整理後では、田の面積が約一町歩増加したのと引き換えに、畑の面積が若干減少し、原野が約四反減少し、山林に至っては整理後は一畝一七歩ということで、ほとんど開墾されたという様子がわかる。食糧増産のため、田を増やすということが重要視されたことが、この表の数字にも表れている。道路の面積も一町近く増加し、溝渠にいたっては一挙に約五倍強の面積になっている。このことは耕地整理が単なる区画整理にとどまらず、用・排水の整備や道路の整備に力をいれていたことを示している。
乾湿の状態は、この耕地整理により明らかに効果が表れているのがわかる。整理前と整理後では、乾燥地の面積が、田が約一〇倍近くに増え、畑も約一・五倍に増えている。過湿の水田では、農作業において多くの労力を必要とし、また、悪水の停滞が絶えず、生産力が低かった。乾田化によって、労働力の省力化がはかられ、施肥の節約もでき、生産力をあげるためには、乾田化はどうしても必要な政策であった。石戸村では、耕地整理の効果として、運搬の便が増したことや、二毛作を開始することができたことを指摘できよう。運搬に関しては、従来道路が屈曲狭隘(きょうあい)で車馬の通行が困難であったが、耕地整理の結果、大小の道路が縦横に走り、運搬が活発になった。また、二毛作も排水渠の整備によって、二町歩以上実施されるようになった。
この耕地整理にかかった費用は、新設道路費六六一円八二銭五厘、新設水路費一三三二円九七銭二厘、新設工作物費八一八円、道路取り崩し費及び水路埋め費一八〇円、測量及び製図費二六〇円、借入金利子一〇〇円、畦畔(けいはん)策立費五〇円、坑木費一五二円、田面埋立残土取り払い費三六〇円、作物損害繕償費三八〇円、予備費一〇〇円、事務所費五五〇円と報告され、合計四九四五円七九銭七厘であった。このうち、新設道路費と新設水路費が全体の約四割を占め、この整理事業の中心が用・排水改良事業であり、農耕道路建設にあったことがわかる。

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