北本市史 通史編 近代
第3章 第一次大戦後の新展開
第2節 地域産業の発展と動揺
3 石戸トマト
トマトクリームの販売前項で述べたように、「低温濃縮法」で実験的に作った製品を、濃厚なトマトソースの缶詰として東京の精養軒・千疋屋・帝国ホテル・国分商会等の食品部に提供したところ、好評を博したことによりトマトクリームの販売が始まった。昭和二年(一九二七)には、トマトクリーム製造販売組合を組織することが計画され、積極的に製造・販売に着手することになったわけである。その後、トマトクリームの販売事業は、順調に発展していた。
昭和三年一月、東京三越で開催された全国名産食料品陳列会において、埼玉名産として熊谷の五家宝、川越の芋煎餅(せんべい)とともに石戸村のトマトクリームとトマトピクルスが出品され、好評を得た。同年五月の御大礼博覧会の際には、全国二七〇種の製品中、優良国産賞として、日本一の折り紙をつけられた。また、毎年八月には、皇室への献上品としての光栄を得たとも伝える。同年九月には、九月十三日付けの『東京日日新聞』の記事(近代№一四六)の中に、卜マトクリーム・トマトピクルスが、済南事変(さいなんじへん)の際に陸軍省御用達(ごようたし)になり、出征軍人の食料にされて非常な成績をあげたことが記されている。また、同じ記事の中に、各方面に販路を広げ、中国・南洋に輪出されているという記述がみられる。イギリス・ドイツ・フランスなどヨーロッパ諸国にまで見本を送って好評を得ているとして、国際商品として成果をあげているとの評価を加えている。十一月には、関東各府県連合副業共進会で、石戸トマト組合が一等賞に入賞している。また、十二月には、農業研究を専門とする岐阜高等農林学校からトマトの種子の依頼があるほど、その名声が全国に知れ渡っていた。
写真107 トマト小唄
(『石戸小学校60年史』P127より引用)
写真108 出荷用トマトの包装紙
昭和2年ころ(新井敬二家提供)
翌五年五月には、東京日本橋白木屋で国産愛用家庭生活展覧会に、農林省副業課の買い上げ方式によってトマトピクルス・トマトケチャップ・トマトクリーム一ポンド瓶各五個が出品された。この時、農林省から、石戸トマトクリーム販売組合の生産品は品質がきわめて良く、ハインズという外国製品と比べてもまさるとも劣らないものとして、推薦されている(近代N0.一四八)。この時の市場価格は、トマトピクルスが一瓶二五銭、トマトケチャップが四五銭でトマトクリームが四〇銭であった。県の農務課副業係では、トマト製品の市場進出のためビラを配布し、食料品店に陳列させるなど、大々的な宣伝活動を行うという考えを述べ、副業化政策に積極的な姿勢を明らかにした。
ちょうどこのころ「トマト小唄」という名の歌が作成され、「さまがめすなら 石戸のトマト 味も器量も 天下一」と歌われるほどの評判を博していたことがわかる。
同八年七月に満州の大連市で開催された満州博覧会に、県農務課では満州輸入組合連合会及び石戸トマトクリーム販売組合などと協議し、満州への販路開拓を目指して石戸トマトクリームを大々的に出品することを決定している。同九年五月十一日の『東京日日新聞』の記事の中に、初夏の味覚として、「トマトのイシト」に早くも集まる注文という見出しがみられる。トマトケチャップ等のトマト加工品を製造して、料理の本場であるフランスをはじめヨー口ッパ諸国に本格的に輸出する用意があることを記している。その結果、早くも「赤い実のトマト送れ」という注文が殺到し、農家はホクホクの体(てい)であるという記事も載(の)せられている。
しかし残念ながら、石戸トマトもだんだんと味が飽(あ)きられてしまい、売れ行きが悪くなってしまった。また、戦時体制下の食料増産の政策も影響し、工場は閉鎖された。当時を知る古老の話によると、昭和十七・十八年ころ、航空会社に用地を売却し、石戸トマトクリーム工場は、完全に姿を消したという。